森琴石(もりきんせき)1843〜1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成21年(5月)

 

今月の話題

【1】森琴石縮図 「明治紀念標ポスター」 について
★ポスター発覚その後
【2】「明治紀念標」移転について
★国立公文書館収蔵資料 3点

【1】

平成17年5月6月8月」に、森琴石が”100分の1で縮図”「明治紀念標のポスター」についてご紹介しました。

「明治紀念標」は、明治10年に勃発した<西南戦争>での戦没者の霊を弔う為に建立された慰霊碑の事である。近年、大阪ではこの「明治紀念標」を取り上げられることは余りなかった。

森琴石が製作した「明治紀念標」のポスターの存在は、倉敷美術館所蔵の「堀和平」の作品の<額の裏打ち>に使用されていた事から発覚した。ポスターは、大阪の”明治紀念標建立の経緯を知る”貴重な資料となり、「明治紀念標」が、最初の発想とは全く違うものとなった事も判明した。研究資料 注1や、新聞記事の話題としても取り上げられた 注2

「明治紀念標」は、明治12年3月、大阪博交社が中心となって寄付を募った。その寄付を募るための<広告風の印刷物>を、森琴石が銅版で製作した。印刷物の中心には巨大な石造四角錐のオベリスク様の全体像が描かれている。基台は星型で、<明治紀念標>と刻字した中心の柱の下には、兵士の像や、シャンデリア風の蜀台が置かれている。上左右には、広告文や紀念標の概要が書かれている。紙面の余白には、周辺の景観の中にそびえる紀念標が鳥瞰図のように描かれている。

「明治紀念標」は、発案から3年半後、明治15年9月に完成した。中之島の豊国神社の西隣に建立されたが、材質は花崗岩から鋳鉄製に、形状もロウソクのような外観となるなど、当初のポスターとは大いに異なった。高さ22メートルに及ぶ、天を突くようにそびえる紀念標は、中之島界隈だけにとどまらず、大阪城と共に、大阪の偉大なシンボルとなった。戦没者の遺族にとっては心のよりどころでもあった。<明治紀念標>の運営は、大阪偕行社(博校社の改名後の名称)が担い、標前では、毎年招魂祭が執り行われた。

その後<紀念標>は、明治35年、大手前の大阪偕行社前に移転され、更に戦時下の昭和18年には、国家総動員法による金属類回収令で撤去された。現在は靖国神社に合祀されている。

「明治紀念標」については、響泉堂刻による「大阪名所独案内 注3」など、当時の大阪案内書には時々紹介されている。

広告ではあるが、<紀念標>の建築物の製図を、建築家ではなく、森琴石が担った事は注目に値する。発案当初の、本当の設計師は誰であったか?また完成した紀念標の設計師は誰であったか?それら資料の出現が待たれる。

森琴石が手掛けた銅版ポスターは、今秋出版予定の「森琴石画集:銅版画編」に掲載します。非常に精緻に銅刻されており、下記の「大阪名所独案内」のものとは相当異なる。

 
 
注1
 

掲載:論文など 平成17年12月「大阪の歴史 第67号」 をご覧ください。

 
注2
 

新聞記事=産経新聞4月21日付夕刊に掲載されました

展示・掲載:その他「幻の明治紀念標 中之島から大手前のシンボルに」(文章:大木令司氏) をご覧ください

★情報ご提供者=吉川豊治氏(兵庫県宝塚市)・吉川氏からは「平成19年11月【1】」で触れた、鎌田梅石の<石敢當>について、平成19年9月4日付産経新聞夕刊記事(連載「心ブラしましょ」:伊藤純氏筆「喧騒にたたずむ魔よけ石」)についてもお知らせ頂いていました。

 
大阪博交社・大阪偕行社=「平成17年8月 注2・注5」に記述しています
 
注3
 

「大阪名所独案内」より

「大阪名所独案内」より

 

「大阪名所独案内」=展示・掲載:連載など平成14年5/26〜平成16年8/14「森琴石と歩くおおさかの町 ※」をご覧ください。

「森琴石と歩くおおさかの町」は、大阪日日新聞連載のものを、一部文章や写真の修正をし、現在、今秋出版に向けて進行です。
 
【2】

平成19年11月【2】」でお知らせしましたが、追手門学院の宮本直和氏 注1より、「国立公文書館アジア歴史資料センター」に収録されている<明治紀念標の移転>に関する3点の資料を拝受しました。

資料によれば<明治紀念標>が移転した理由は ”当初建立した中之島は、明治27、8年戦役(日清戦争)の戦没者を合祭して以来参拝者が倍増した。同所は場所が狭いため雑踏を極めた。そのため祭典は他の場所で執行してきたが、その周辺は近年来民家の建築が相次ぎ、祭祀の場所としてふさわしく無くなった為” とある。下記にそれら公文書の全文をご紹介します 注1。 

 
 
注1
 

宮本直和氏=大阪市・追手門学院小学校教務部長 →「平成17年8月」でご紹介しています

 
 

「明治紀念標」 移転に関する資料

国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(PORTA):アジア歴史資料データベース  より閲覧できます

(一)

タイトル
用地使用願の件
作成者(著者) 
陸軍省/大阪府知事 菊池侃二/庶務課長
日付
明治35年1月20日
内容記述

府第一五号二第四五号陸軍省受領壱第二八号 陸軍省用地使用願副申府@大阪市北区中ノ島一丁目ニ建設シアル明治記念碑ハ今回陸軍省@管大阪城南練兵場内ニ移転シ該敷地使用ノ義大阪偕行社幹事長兼弔魂会長男爵小川又次ヨリ願書差出度処右ハ願面記載之通事情不得止義ト被存候間可然御詮議相成度別紙進達旁此段副申候也 明治三十五年一月十五日 大阪府知事菊池侃二 陸軍大臣男爵児玉源太郎殿内務大臣男爵内海忠勝殿 本件ハ本年一月大阪府知事ヘ照会ノ侭@@ナシ仝日ニ@@ナケレバ此侭結了トシテかナラスヤ将督促ハ要スベキモノナルヤ此侭結了相成

提供元=防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>壱大日記>明治35年8月 「壹大日記」



(二)

件名標題
目次 明治36年2月 「壹大日記」
アジア歴史資料センタ:簡易検索「壹大日記」 → レファレンスコード番号入力
レファレンスコード
C04013880600
作成者(著者) 
陸軍省
日付
明治36年2月
内容記述

第一号 東京府 用地備用ノ件 第二号 愛知県 用地内ヘ砂防堤築設ノ件 第三号 東京府 電柱建設等ニ関スル願書進達ノ件 第四号 山形県 廠舎及敷地寄付ノ件 第五号 福岡県 地所交換ノ件 第六号 栃木県 使用許可地返付ノ件 第七号 吊魂会大阪偕行社 大阪偕行社使用地域内ヘ記念標建設ノ件 第八号 鹿児島県 日本体育会鹿児島市会ヨリ陸軍省用地継続使用ノ件


(三)

タイトル
大阪偕行社使用地域内へ記念標建設の件
作成者(著者) 
陸軍省
日付 
明治36年2月
内容記述

一第一二三号 吊@会大阪偕行社 大阪偕行社使用地域内ヘ記念標建設ノ件 経建甲第八七号 御指令案 吊@会 大阪偕行社 願之趣聞届ク @第四師団@@部長ヘ通牒案 大阪偕行@借用地域内ヘ記念標建設ヘ@別紙@@@願@通指令@@条此段及@通牒候也 送乙第二七二号 佐賀西南ノ二役ニ於テ第四師団ノ陣亡セシ者ノ為大阪偕行社々員率先シ地方有志者ト協力ヲ以明治十五年大阪市中ノ島ニ記念標ヲ建設シ爾来毎年標前ニ於テ招魂祭執行致来候処其後二十七八年戦役ニ於ケル陣亡者ヲ合祭セシ以来参拜者年一年ニ倍@シ同処ハ地域狭隘ニシニノ非常ニ雑沓ヲ極メ故ニ先年来祭典ハ他ノ場処ニ移シ執行セシ処逐年標ノ周囲ハ家屋ヲ建築セシ為メ標ヲ被覆シ殆ント堙設セラレ当初記念標建設ノ

提供元=防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>壱大日記>明治36年2月 「壹大日記」

 

上記と同類の「防衛省」の資料は、<大坂府 該府火平民小川新助海陸全図出板の義に付伺>があります

平成21年2月 注3」でご紹介しています

   


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