森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成22年(1月)

  今月の話題

【1】情報ご提供


森琴石の「弾琴図」の最後の持ち主は、「永富撫松」だった


永富撫松=兵庫県揖保郡たつの(龍野)の詩人/鹿島守之助は実子(4男)



【1】

今から5,6年前のこと、当HP「資料紹介:詩賛」に、「森琴石 断髪弾琴之図」に添えた、石橋雲来による賛注1 を、飯田市美術博物館の槙村洋介氏に、翻刻及び読解をして頂きましたが、賛の中、「”撫松子”ということろが意味不明であるが、いつか解読出来る時が来るでしょう」と、その部分は、漢字をそのまま訳していました。


この度、千葉県松戸市の「小林昭夫氏 注2」から、「撫松子」は「松子を撫し」では無く、兵庫県揖保郡龍野の詩人「永富撫松」を指し、”弾琴図”は、石橋雲来の斡旋で「永富撫松」から琴石に贈られたのでは?とのご意見を頂きました。以下小林氏のご見解を下★にご紹介します。


★小林氏によれば、「撫松子」は人名で、「簏底に蔵す」の主語であり、「子」の意味は、雅号(撫松)に軽い敬称の「子」を添える称呼は、当時の文人達が同輩・友人に対してよく用いていた。

「永富撫松」は、森琴石の親交者”石橋雲来”と同郷である事、石橋雲来の著書「友蘭詩第三集  注3、第五集」に撫松の詩が収録されている事などから、石橋雲来とは面識は勿論の事、かなり親しい間柄であった可能性があり、「撫松子」と呼ぶ関係の人物にふさわしいと思われる。

★「永富撫松」は琴に非常な関心を有している。 「鎌倉琴社」のHPには「日本琴詩集」のページがあり、五山文学時代からの漢詩が集められているが、その中に永富撫松の詩が9首も収められており、浦上玉堂に次いで多い。

「撫松」自身が保有していたのは無弦琴で、撫松の詩は、他人の弾くのを聴くものに限られていることから、彼自身が演奏を楽しんだわけではなさそうだが、琴に対するこのような思い入れが、「断髪弾琴図」を手に入れて愛蔵した動機になったものと思われる。



槙村洋介氏、鎌倉琴社の伏見无家氏、森家ら関係者は小林氏のご見解に賛同し、「森琴石断髪弾琴図」の絵画は、「建部聽山」から「永富撫松」に譲られていたと解釈致しました。


「永富撫松(敏夫)」は、明治時代の永富家の当主で、また詩人として著名であった。幼時より学問に秀で、「陶淵明」を生涯の理想とした。師匠「股野達軒」は龍野で最も重んじられた老儒の一人で、交流者が、森琴石やその周辺の人物の交流者と重なる。明治14年6月、東京不忍池の三河屋で開催された詩会に参加した時のメンバーには「土方久元・小野湖山・巌谷迂堂・川田甕江・日下部東作・岸田吟香依田学海」らがいた。


「永富撫松」が育った生家「永富家」は、代々庄屋を務め、龍野藩脇坂氏から「在郷家臣」という資格で上級武士の待遇を受けていた(苗字帯刀を許された)豪農である。その住居「永富家住居」は、190年前の文政5年(1822)に完成した家屋で、昭和42年国の重要文化財となり、たつの市の観光名所として知られている。外交官・政治家・実業家となった「鹿島守之助」は「撫松」の4男である。


永富家の代々の当主たちは、いずれも学問があったうえに仕事熱心で、その記録は1万点を超える永富家文書となって現在まで残されている。「永富家住居」の多数の資料の中には、撫松の居室名「讀我書屋」の書額や、「永富撫松」が遺愛した風鈴なども置かれている。


もし「森琴石 断髪弾琴図」が、森琴石の元に返されずに、永富家にずっと所蔵されたままであったならば、この絵画はもっと早くに日の目を見た可能性がある。下方に「永富撫松」及びその師匠「股野達軒」についての略歴、永富家の画像をご紹介します 注4


 

注1

忍頂寺静村画 「森琴石 断髪弾琴之図」 及び 石橋雲来書”詩賛”

 

 

原文

此曽忍頂寺静村翁所製而、為森琴石
畫史弾琴図。當時、官発斬髪之令、畫史
亦断髪、以弾琴所以有此図也。此図初成
先示之建部聴山翁。頃撫松子蔵之簏底。
乃将贈畫史、令余記其由。蓋応畫史懇
請也。因書之。時辛丑六月中浣也

友人  雲来僊史


訳文

此れ、曽(か)つて忍頂寺静村が製す所にして、
森琴石畫史の弾琴図為(た)り。
当時、官、斬髪之令を発し、画史また断髪し、
以て弾琴し此の図の有る所以(ゆえん)なり。
此の図、初て成るや、先ず之を建部聴山翁に示す。
頃(しばらく)、撫松子(永富撫松)之を簏底に蔵す。
乃(すなわち)、 将に畫史に贈らんとして、
余に其の由を記さ令(し)む。
蓋し畫史の懇請に応じる也。
因って之を書く。 時辛丑六月中浣也。

友人  雲来僊史

   

注2

小林昭夫氏

★(財)無窮会・東洋文化研究所研究員

★ITでは「らんだむ書籍館」を主宰、森琴石HPでは「平成18年3月【1】」・「平成18年7月【1】」・「平成19年12月【1】注3 扇面3つ目の訓読」・「雅友知友:石橋雲来」-著書 ★「友蘭詩 第5集◆」 などに記述、当ホームページには多大なご協力を頂いています。



   

注3

「永富撫松」詩文・・・・・石橋雲来著「友蘭詩 第三集」より

○永富撫松
       名敏夫
       播州揖保人

※画像ご提供者=小林昭夫氏
   

注4

永富撫松

★元治元年(1864)7月6日、父宗定、母竹の二男として誕生、初名を貞明と云い、後敏夫と改名した。母竹は貞明4才の夏26才で死亡。父宗定は、貞明12才の夏に45才で亡くなった。

★明治7年(1874)の11才の頃、本間貞観(号虚舟)の半九精舎に入舎(在11年)、股野達軒に就き漢文を講究する。

★号は初め靖軒、次靜軒から撫松へと変わる。居室を「讀我書屋」、晩年の隠宅を「春及廬」と名付けた。これらの名は「陶淵明」に由来する。師匠「本間虚舟」が書いた、陶淵明の「歸去來辭(帰去来辞)」の詩書を、六曲二隻屏風に仕立てたほどだ。

★幼少より学才際立ち、学問の基礎は虚舟から煦育されたが、詩文においては達軒からこと細やかに薫陶を受けた。達軒が主催する「淡水如社」では、19才の時最年少で、先輩たちを凌ぐほどの成績を修め、その後も常に評者大沼枕山から高得点を与えられていたという。塾や達軒の蔵書が好学心を更に啓発し、自身も良書を集め「讀我書屋蔵書目」にみられるくらいの数となった。

★「撫松山人」として詩名はますます高くなり関西詩壇の重鎮となったが、大正2年6月15日、病気により50才で歿する。

★大正5年、長男股野藍田の撰文で「紀恩碑」が建立される。この時虚舟は69才。

★達軒には3児あり、長男の琢(字子玉・号藍田)は宮内書記官に、次男の景弼は達軒の実家長尾家の跡を継ぎ、銀座博聞堂の経営者だった。


股野達軒

★龍野藩参政長尾崇の第五子、文化12年8月生まれ。名景質、字好義、別号は亡羊子。

★初め江戸にに出て梁川星厳、大槻磐溪に学び、後小野湖山、大沼枕山に学ぶ。

★明治13年8月頃、達軒と矢野靜廬が提唱し「淡水如社」を開設(明治18年頃まで存続)、大沼枕山に添削批評を乞う。ここからは多くの有能な弟子が育った。

★明治17年古稀を祝して「達軒詠古詩抄(金+少) 2巻」が上板。楊守敬が題纂を冠し、三条実朝(序)・日下部東作(書)・長三洲の書にかかる川田甕江の序文・伊藤博文(題辞)・巌谷一六の筆にて中村敬宇の後序、跋文に岡本黄石・小野湖山・大沼枕山など当時の詩壇の大家が筆を並べるている。   ⇒近代デジタルライブラリーで閲覧出来ます

★達軒の屋敷は本間塾(半九精舎)に隣接し、達軒の書斎を「晩香居」と呼んだ。明治27年2月19日、80才で亡くなったが、歿前まで綴られた日誌は「晩香居日録」と称し、当時を知る貴重な資料となっている。

●伝記は「靜軒詩存」(今田哲夫著/鹿島守之助発行/昭和37年5月15日/非売品)による

●上記に出る漢詩人や揮毫者=「平成19年5月(【1】」・「平成17年6月」・系類「武富圯南」などをご覧ください




「永富家住宅」


前方右端が国指定重要文化財「永富家住宅」、その左側全部,塀に囲まれた住居は,現永富家住居

笠置山

※永富家住居は、ブログ「愛犬ハナとその家族の日常 2008年6月9日(火)」分をご覧ください。美しい画像で紹介されています



本間虚舟書額「讀我書屋」


吉野山


永富撫松の漢詩


雲津浦(島根県) 矢印

作詩=明治41年5月

雲津浦(島根県)



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