注1 |
森琴石旧蔵 小屏風
サイズ=縦91cmx横151cm (書画のサイズ=各 縦20cm前後 x 横28cm前後)
|
|
|
|
作品紹介(右曲分)
★翻刻、読解、語釈、印の読みは、松戸市の「小林昭夫氏」にご協力頂きました。
★天野方壺については、梶岡秀一氏(愛媛県美術館)に、翻刻、読解、印の読み及び解説等ご協力頂きました。
1 「小原 竹香」(おはら ちっこう) |
|
- 翻刻
- 咏史
- 誰託呈出上諌書
離朱明眼果如何 青天白日公心事 豈海興隆震帝居
- 読解
- 史を詠ず
- 誰か 託して 上諌の書を呈出せし、
離朱の明眼 果たして如何。 青天白日たり 公の心事、 豈(あ)に 海の興隆して 帝居を震(ふるひうご)かさん。
- 語釈
- 「咏史」…歴史上の事柄を題材として詩歌を作ること。また、その詩歌。
- 「託」、「上諌書」…帝位を狙った道鏡に対し、清麻呂が宇佐八幡の神託を奏上してその企みを封じたこと、また道鏡に憎まれて大隅に流された後も称徳天皇に上書したこと(大日本史)、などをさす。
- 「離朱明眼」…離朱は、百歩離れた所から毛の先が見えたという中国古代の伝説上の人物であるが、離朱の明眼とは、物事の是非を見究める能力(=聡明さ)の比喩であろう。ここでは、清麻呂が称徳天皇の明敏な判断に期待したことを表わす。
- 「豈」…反語。帝居(皇室)を震い動かすようなことがあってよいのか。
- 印
- 「原棟之印」・「隆主氏」 他
- 解説
- ”和気清麻呂が道鏡の野望を排除した事件”を題材にして詠んだ。
- ★小原竹香と和気清麻呂
- 小原竹香は岡山の元津山藩士。
岡山の偉大な先人和気清麻呂の”清廉剛直にして、誠実な人柄”を示す事件※を詩にした。
- ※和気清麻呂は、天平5年(733)備前国藤野郡(現和気町)に生まれる。
-
- ※津山(矢印上)と和気(矢印下)
- { は、知己の多い地域
-
- ★岡山に知己や足跡が多い森琴石は、清廉号剛直な文人度の高い「小原竹香」を相当尊敬していたと思われる。小原竹香は、森琴石著「墨香画譜」・「南画独学揮毫自在」への題字揮毫者。木蘇岐山著「五千巻堂集 禮」の”乙酉(明治16年)”の19丁に「贈小原竹香」と題した記述か所がある。
|
|
|
|
2 「浅井 柳塘」(あさい りゅうとう) |
|
- 翻刻
- 柴門必鎖貴常閒
唯許溪雲往又還 終日看書眼初倦 巻簾也對夕陽山
- 庚辰冬詩畫
爲
琴石森老契 雅嘱
白山居士龍
- 読解
- 柴門 必ず鎖し 常に閒なるを貴ぶ、
ただ 許(いささか)の渓雲 往きてまた還るのみ。 終日看書し 眼 初めて倦み、 簾を巻いて 対するは 夕陽の山。
- 語釈
- 承句の「許」…少許(すこし、わずか)の意と解す。
- 「庚申冬」…明治13年、冬は陰暦10月~12月を指す。
- (四季の用語解説はこちらをクリック下さい)
- 印
- 「癭橘」・「白山居士」 他
- ★備考
- 森琴石は、京都府画学校の教師連とは交流があった。柳塘は清国へ渡った事、森琴石と浅井柳塘は、同じ寄合画や寄合画巻に名を連ねている事などから、価値観などが共通していたようだ。
- ★当HP内「浅井柳塘」記述か所
- 「平成17年5月■4番目注5」・「平成18年10月【1】注1、3」・「平成19年3月【1】注4」・「平成20年1月【2】注2」・「平成20年2月【2】注4,5」・「平成22年6月【2】■2番目●4番目」
|
|
|
|
3 「天野方壷」(あまの ほうこ) |
|
白文印(上)「天橘」
朱文印(下)「黄香」 ↓朱文印「石山仁」
朱文印「白雲処」 ↑
- 翻刻
- 雲開見山高
木落知風勁 亭下不逢人
夕陽淡秋影
- 倣雲林之意
并繕其詩
琴石先生正 方壷
- 読解
- 雲 開いて 山の高きを見、
木 落ちて 風のつよきを知る。 亭下 人に逢はず、 夕陽は 秋影に淡し。
- 雲林の意に倣(なら)ひ、
并せて其の詩を繕い、 琴石先生正す
- 語釈
- 「雲林」…倪雲林、すなわち元代の文人画家・倪瓉。
- 「繕(セン、ゼン)」…つくろう。おぎなう。をさめる。よくする。文書を編録する。・・・・など
- 解説
- *雲林の筆意に倣って絵を描いたところ、この絵によく調和する雲林の詩について琴石先生が教えてくださったので、それを書いた。
- 落款印について
- 朱文印=雅号印。白文印=氏名、姓名の印。その他 関防印、遊印、連印などがある。
- ★補足
- 「平成19年5月【1】■4番目」にあるように、森琴石は木蘇岐山「倪雲林に次ぐ風流人」と賞された。
天野方壺が森琴石に寄せた賛文の中の詩文は、、倪雲林の自画「秋林圖」の詩賛の一部のようだ。
- ★備考
- *天野方壺が学んだ「胡公寿」は森琴石の自宅に来るなど森琴石と親交があった事、森琴石に花鳥画を学んだ「森泰石」は、その後「大橋翠石」に動物画を学んだ。「大橋翠石」は、天野方壺の数少ない弟子の一人であった。これらは森琴石と天野方壺との縁によるものが大きいと思われる。福井県武生(たけふ)で同じ旧家で画を揮毫している事など、天野方壺と森琴石の関係は、出現した資料でしか判らないが、まだまだ知られざる事実がありそうだ。
- *胡公寿は、森琴石紹介「3:【第五回内国勧業博覧會審査官列傳 前編】」にあるように、森琴石を「詩書画三絶」と称した。胡公寿は、明治13年新秋(陰暦7月の異称)森家を訪問している。森家には、保存状態が非常に悪いが「為栞石先生・・・・」と落款のある”胡公寿の大横額”が残されている。後月に、この詩書額をご紹介したいと思います。
- ★当HP内「天野方壺」記述か所
- 「平成14年7月」・「平成15年12月■1番目」・「平成16年10月■第3番目」・「平成17年6月■4番目◆1番目」・「平成20年2月【2】注4、注5」・「平成21年8月【1】■3番目注1」
- ★天野方壺については、愛媛県美術館の「梶岡秀一」氏が長年に亘り”天野方壺の調査研究”に尽力されておられます。研究の一部 『天野方壺印章についての覚書―角田家旧蔵品を中心に』 が、インターネット、PDF(http://www.ehime-art.jp/publication/journal/2006/kajioka.pdf)で紹介されています。叉、ご子孫の天野 橘太郎氏がHPで「文人画家天野方壷」を発表されておられます。
|
|
|
|
4 「行徳玉江」(ぎょうとく ぎょっこう) |
|
- 翻刻
- 漁江風月旌人管
且向前汀問白鷗
- 辛巳立冬 冩為
琴石雅契一撃
玉江釣徒
- 読解
- 漁江の風月 人の管(す)べるを旌(あらは)し、
また 前汀に向(行)き 白鴎に問ふ。
- 語釈
- *承句の「且向前汀」…宋代の詞人・黄裳の「新荷葉(雨中泛湖)」中の句「放船且向前汀(船をすて(且つ)前汀にゆく)」の一部引用か?
- *「辛巳立冬」…辛巳は明治14年、立冬は11月7日頃。
- *為書きの「一撃」…撃は目撃で、「一見」のことか?
- 解説
- *風光とそれを楽しむ人々との交歓を歌った黄裳の詞を前提にして詠んだようだ。
- *玉江は、我が国ではなじみの薄い詞(塡詞)を本格的に研究し、創作を試みたことで知られている。
- 印
- 「直貫私印」・「平氏仁卿」 他
- ★備考
- 行徳玉江は、鼎金城門下で森琴石の兄弟子に当たる。書誌「書画題跋 落款自在」等での共同事業など共通の足跡が多く、鼎金城の門下では一番関わりが深かった人物。
- ★当HP内「行徳玉江」記述か所
- 「平成18年10月【1】■6番目」・「平成18年12月【1】■8番目◆南画独学揮毫自在(二)」・「平成19年2月【1】の最後」・「平成19年6月【1】■7番目、同【2】■2番目」・「平成20年9月【2】■2番目」・「平成21年8月【1】■3番目 名家画帖の下絵」・「平成21年10月【1】■1番目」
|