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森琴石周辺の人物や事柄・資料などを紹介する項目です
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尼の毛受さん(あまのめんじゅさん) |
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『まんだ』五九号(大東市、地域文化誌)より 橋本 貢 文(大東市文化財保護委員) ●当HPでの関連項目=最新情報「平成15年7月■2番目」 |
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◆毛受家の出生地は尾州毛受村で、兄を茂右衛門、弟を庄助といい、共に柴田勝家に仕えた忠孝の士であった。中でも弟庄助は十七歳のとき、長嶋の戦い天正二年(一五七四)で、柴田勝家が馬印の金の御幣を一向宗にうばわれたのを、取り返した。その恩賞により、小姓頭となり一万石の大名となった。領地は現在の武生市あたりで、柴田勝家は毛受勝助家照と名前を与えた。その後、羽柴秀吉と柴田勝家との柳ケ瀬の合戦(天正十一年四月二十日)の時、勝家軍には脱走兵が多くなり、留まる兵三千人にすぎない有様であった。それでも勝家は秀吉と決戦を行なおうとしたが、近臣らはこれを諌め止めて、越前に帰国し再起をはかろうと主張した。中でも毛受家照は勝家の身代わりとなり討ち死にすることを願った。勝家は背進する時に、まず羽柴軍に一撃を加え、いちどは羽柴軍を退けてから馬印を毛受兄弟に授け、百余人の近臣を連れて柳ケ施の戦場を脱出、北国街道を越前北庄へ向って疾走したのである。 ◆毛受兄弟は狐塚に出陣していたが約一キロメートル退き、林谷山の原彦次郎のいた砦に入った。(狐塚は防御に不利な場所だったのでここに移動した。)堀秀政の兵はこれを勝家と誤認し、逃げるのを追って林谷山の砦に迫った。毛受兄弟の兵は約三百人と少なかったが、勝家より授かった金の御幣の馬印を中心に活躍し大いに防戦につとめた。最後は十七人になり、弟の家照も秀吉方に胸を射抜かれ力つき壮烈な討ち死にをとげた。時 天正十一年(一五八三)四月二十一日午後二時であった。場所 滋賀県余呉町新堂(余市バス停左)
◆その後秀吉はこの戦闘での兄弟の武勲を賞し、遺体を丁重に葬り遺族を捜して厚く保護したという。なお村人はこの地を聖地として守り続け、明治九年には滋賀県令 籠手田安定氏は此所を訪れ、兄弟の遺徳を偲び墓碑を建立したのが現在の墓碑である。 寿蔵碑 河内国住道村毛受小兵衛翁、進徳修業ス。嫡子小八郎父母ニ事ヘテ孝ナリ。乃チ寿蔵碑ヲ其郷ニ立テ、以テ其行事ヲ記ス。翁ノ名ハ至ル、字ハ富久、鑛山ト号ス。天保十四年二月十二日、大阪天満相生西街ニ生ル。父ハ森宗達トイフ。翁、甫メ四歳デ親戚ノ故ヲ以テ、毛受庄造ノ其姓ヲ養育スル所ト為ル。香川一郎、篠崎小竹ノ諸翁ニ学ブ、毛受ノ祖ハ、尾州毛受村ニ生ズル也。武官為リテ、八代浄勝ニ至ル。官ヲ辞シ帰農シ大和ニ住ス。後、大阪ニ転ジ両替商ヲ営ム。昭造歿スルニ及ビ、翁ハ其業ヲ継グカタワラ町年寄ヲ勤メルコトハ殆ド十年。河内国秦村ノ西嶋氏女登起子ヲ娶リ五男一女有リ、小八郎ナホニ子ヲ重ネル也。前後皆夭シ、初メテ翁養父ノ後を襲グナリ。故アッテ大イニ資産ヲ失ヒ、遺感アタワズ。楷ニ復旧ノ念急ナルモ乃チ止ム。事蹟ノ湮滅スルヲ恐レ、マサニ勤メテ以テ後々ニ伝エントス。アアコノ父ニシテコノ子有リ。進徳修業ノ道虚シカラズトイフベキナリ。余、小八郎ニ代リテ乃チ筆ヲ授ク。 |
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参考資料:大東市文化財ガイドブック・日本の合戦(新人物往来社) ※雲来仙史 石橋教=石橋雲来 「石橋雲来」(いしばし うんらい)
毛受小八郎寿蔵碑 毛受氏については、ここにあげた碑文以外に古文書等の記録はなく詳しい事は分からない。 しかし大正十年頃まで、尼ケ崎新田三十六町歩の大地主であった。 もともと尼ケ崎新田は深野池を元禄十五年(1702)に、同新々田はその結果 不要になった堤を宝永四年(1707)に、豪商尼ケ崎又右衛門が開発したものである。 尼ケ崎は今も知名として同地に残る。それを幕末に大阪天満で両替商「大和屋」を営む毛受氏が買い受けた。 古老の語る所によると、毛受氏の屋敷は五反六畝(約五千五百平方米)もある壮大なものであった。 建物は戦争直後まで残っていた。そして節句等には近所の子どもを集め、にぎやかであった。 また、寝屋川の会所橋も毛受氏が、自分の子どもが小学校(現住道北小)に通 うのに便利なように架けたものだと、今でも伝える。 しかし、大正に入ると三十六町の土地と屋敷は、出入りの業者の保証人印を押したことが原因となり、押収されてしまったと伝え聞く。
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井原後月人物誌(いばらしつき じんぶつし) |
「井原後月人物誌」 (いばらしつきじんぶつし) より ●当HPでの関連事項=最新情報「平成16年7月」 |
「笠原彌代吉」 (天保10年〜明治45年2月10日没 ) 弥代吉は神代町に生まれ、田二〇町歩を持つ資産家であった。 これは弥代吉が仁科善七という骨董商に託して、鉄斎の居を訪れて贈った謝意の揮毫である。この善七については、明治初年、東京の阪谷朗廬から西江原の坂田警軒宛の書状を筆者が所持しているが。これに『十二月三日書状相届候。先月末、井原善七来り商用に候。例の書画集め勉強の奇人なり。大阪の玩仙と申す老人同道来る。又奇人なり。しかし両人長く宿り込みには、ちと閉口致候』とある。 弥代吉は明治三十年頃には神代橘を四町歩にわたって植栽した。 明治二五年には、頂見文殊院恵観僧正が、本堂、客殿、庫裏を改築すると、木材も弥代吉所有の山から良木を伐り出し、屋根瓦は矢掛で焼いて、弥代吉宅を中継として、頂見迄運ぶ等、当時一四〇戸の檀家の建てた寺院としては、荘厳華麗な建物を完成した。本堂はその後、宝蔵院に移築された。 明治四十年、内寺にあった江原小学校が敷地が狭くなって、移転の必要が迫ると、敷地五反歩の購入費、二千円を寄付して、宮田、井の尻の地に移転改築に至り、村では頌徳碑を建ててその徳を讃えた。 |
大阪の書林(おおさかのしょりん) |
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●森琴石は、明治8年頃から22,3年頃まで、自身の著書類の出版や、銅版画師【響泉堂 森琴石】として多数の書物師と関わっていた。この分野については調査中である。 |
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(一)『浪華の魁』より
★上記は、森琴石が一番多く関った大阪の書物師たちでもあるが、中でも吉岡平助との関わりが一番多い。 (二)『大阪名所独案内 下』 −末尾附録−より
(三)『大阪営業案内 大阪商品仕入れ便覧』 −目次− より宇田川文海編/ 長谷川金次郎発行 (明治31年)
(四)『大阪人士商工銘鑑』より
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大阪の有名諸大家(おおさかの ゆうめいしょたいか) |
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◆明治期に大阪で活躍した諸大家を、刊行書誌から刊行年月順にご紹介します |
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(一)『浪華の魁(なにわのさきがけ)』編輯人:垣貫一右衛門(北区曽根崎新地壱丁目三十九番地) ★記載順序は 左⇒右
(二)『大阪名所独案内(おおさかめいしょ ひとりあんない)』伴源平著/響泉堂刻/柳原喜兵衛,北村孝次郎,北村彦助 出版/吉岡平助 発行/明治15年3月 [大阪名所独案内 下] 〜末尾附録3,4丁〜
◆大阪名所独案内の挿画は、「森琴石と歩くおおさかの町」のタイトルで、<大阪日日新聞>にて毎週木曜日の朝刊版で紹介されました。 (三)「大阪市中近傍案内 (おおさかしちゅう きんぼうあんない)」編纂:森弥三郎 発行:榊原英吉
◆「大阪市中近傍案内」での<森琴石>掲載情報ご提供者=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家) ―いずれも平成14年春 ご提供いただきました― |
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