(一)
佐野琴岳
明治十一年生 名知崇。字は子禮、通称は佐孝、琴岳と号し
別に介仙の号あり。浪花錦城池畔に生る。
幼より画の癖あり。川俣柳仙につき、漢詩及び四君子の画法を学ぶ。
後、行徳玉江、森琴石に就き、山水画を学び、傍ら五十川訊堂、馬場健に就き経史を修む。
各種展覧会、共進会に出品受賞すること十数回。
住所 大阪府泉北郡浜寺公園今在家
「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)より
(二)
佐野岱石先生
先生は大阪の人 名は知崇 字は子禮 通稱は佐幸 岱石と號し
別に琴岳と號す
明治十一年一月二日を以て生る
佐野佐一郎の息 母は縫子共に健在なり
其租古く紀州に住し明渡を姓とす
梶井古義の戦皆一方の将となり抜群の功を樹て歴代和歌山藩士たり
父租の時に至り始めて其姓を佐野と稱すと、
先生幼より畫癖あり常に彩管を弄す
稍長ずるに及び身を大阪師範学校に投ず
在學中同校の圖畫科教師松原三五郎※の愛を被りしこと多大、
卒業の後業餘筆を放たず行徳玉江に事へ通
學五年其技大に進む
玉江歿後更に森琴石に師事し研鑽多年遂に一家を成す 又五十川訊堂、馬場健等に就き漢書を聽くこと九年
後木蘇岐山に師事し其蓋棺の日に至るまで孜々倦まず進境著しきものあり
大正三年育英会を辞して支那に遊び淹留半歳滬上にありて陸廉夫、黄山壽、呉俊卿※等の老大家と交を訂し六法を究む
其去るに臨み廉夫之に贈るに山水樹石の二小幀を以てす
先ず山水に賛して曰
 |
「樹者山水中發生之象也有樹之低昂搖曳而山之不動者從以此生不動矣則樹於山水其親密也尤其岱石仁兄勤求六法數以此道與予孝究故作樹五株よう(勝の力が女)以坡石貽之帰而参諸造化則■洲草木皆君筆墨之師篤」と、 |
他の一幀の樹石は蓋し其福壽を_るの意を寓せるなりと
更に路を蘇洲に転じて江山の勝を探り同地の大家顧鶴逸を訪ひ遊ぶと
月餘にして大阪に帰来し今や紅塵を高師海濱白砂青松の地に避け日夜翰墨に親しみつゝあり畫を請ふ者日に多しと、
南河須田氏の長女葉満子を娶り順一、安子、壽祐の二男一女を挙ぐ(府下高石町今在家羽衣駅西)
「續浪華摘英」(発行兼編纂 三島聴恵・大正五年十二月刊)より
※松原三五郎=「北野百年史より」などに掲載
※呉俊卿=呉昌碩の事
(三)
著書など
◆「南画初歩 三巻、補一巻」(加納黄文著※・明治44年)の<補一巻>は、佐野琴岳(岱石)編
◆「南画初歩 天地人完4冊 ★」(加納黄文著・大正元年9月)の第4冊目「完/菊之部」は佐野琴岳編
★「南画初歩 天地人完」 表紙
|
★「南画初歩 完/菊之部」 奥附
|
佐野琴岳編 「南画初歩 完 / 菊之部」より |