森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成12年

平成12年12月

大阪市北区梅田にある阪急百貨店(六階古美術街)の「山中商会」を訪れる。森琴石の「煎茶」に関する下絵には、「天山中てんやまなか」「高山中たかやまなか」「角山中かどやまなか」や屋号である「春篁堂しゅんこうどう」の文字・名前がしばしば出てくる。下絵類は煎茶会に展覧した画や道具類を、写生や縮図にしたものである。これらの名は、琴石の自宅に近かった大阪市東区高麗橋(こうらいばし)界隈で営む古美術商「山中春篁堂」の一族の名前である。明治半ばからは、世界にはばたく東洋古美術商「山中商会」として発展していった。社長の山中潔氏から「春篁堂」の歴史や、その他の資料のご提供を頂く。また「煎茶道」や「明治期の大阪文化」に詳しい方々のご紹介をいただく。

春篁堂の春=「竹かんむりの下 春」 ∵IT上正確には表示されない為、春に置き換えた

天・高・角は、地名や住居の位置により区別、名づけられた。

明治27年山中定次郎氏がニューヨークに最初の店を構え、以後ボストン・シカゴ・ロンドン・北京 などに出店し、イギリス王室から英国王室御用達の証明紋章「ロイヤル・ワラント」を受ける。

山中定次郎氏の人物業績については、昭和14年刊・山中定次郎翁伝編纂会編「山中定次郎伝」に詳しく著されている。また「天龍山石佛集 1928」・「棚物集成1933」・「支那古銅精華1933」・「九谷 鍋島 柿右衛門名品集1934」など多数の著書がある。

山中潔氏は平成15年12月「山中商会」を退職。新たに平成16年4月より兵庫県芦屋市で「山 中春篁堂」の名を復活させて美術商を営む。潔氏は山中定次郎氏のひ孫に当たる。

「関西こころの賞」受賞などで知られる、大阪の地域史研究家の三善貞司氏より前月11月に刊行された、氏の多年にわたる粘り強く且つ幅広い調査の集大成でもある清文堂刊「大阪人物辞典」のご送付を頂く。

平成12年8月

森琴石の儒学の師、また文人の嗜みである琴碁書画(きんきしょが)の一つ七絃琴の名奏者である妻鹿友樵(めが ゆうしょう)のご子孫、妻鹿友弘氏宅を訪問する。森琴石自筆の七絃琴の譜面帖や忍頂寺静村が描く、森琴石断髪記念「弾琴図」を持参、妻鹿友樵遺愛の七絃琴を拝見する。明治18年刊依田学海著「学海画夢」の中に琴石の紹介で学海らが妻鹿友樵の「三友艸廬」(さんゆうそうろ)を訪れ、友樵の七絃琴を聴くという著述がある。琴石の門弟名簿(明治30年)に名がある永田聴泉は七絃琴を妻鹿友樵に習い、同門弟鎌田梅石は漢学を妻鹿友樵に学んだ。大坂開成所の前身である大坂洋学校の開設に務め校長となった何礼之(が・れいし)は明治27年3月、妻鹿友樵の琴道に入門している。

依田学海(百川)・・・天保4年江戸生まれの佐倉藩士。明治の漢学者、また演劇改良家として多数の著書、演劇脚本を書く。

何礼之・・・天保11年長崎生まれ。慶応三年幕府の命で江戸開成所(東大の前身)の教授赴任など教育に尽力、翻訳本も多数。

大坂開成所は舎密局から始まり、その後複雑に変革し、三高・京都大学へと経緯する。

造幣局博物館(大阪市北区)には、造幣寮内での授業の教材に使用された、明治5年刊何礼之訳「世渡の杖 よわたりのつえ」(一名、「経済便蒙」)が展示されている。

七絃琴の「譜面帖」・「弾七絃琴図」は「鎌倉琴社・雑記録・2004年1月7日」にあります。

洋学校、何礼之 については「三高私説」HP内から抜粋掲載しました。

平成12年7月

門人舩田舩岳(ふなたせんがく・書画名鑑では僊岳とあり・現鳥取県西伯 郡名和町出身)の人物像が紹介される。舩岳は森琴石に画を学んだ後東京に遊学、東京美術学校(第一期生)に入学する。卒業後は関西画檀で活躍の傍ら、大阪府第一尋常中学校(のち大阪府立北野中学校から現在の大阪府立北野高等学校へと推移)で図画の教師を勤めた。明治29年、同校の教科書改良方針の先鞭を切り、教材には毛筆自筆の画帖を使用した。病臥に倒れ惜しくも明治43年、47歳の若さで亡くなる。

平成12年6月

山口県下関市の長岡完治氏から、明治20年に赤間関(現下関市)で描かれた「山水図」の所蔵のご連絡を頂く。琴石は赤間関には度々訪れていたと伝えられている。

明治30年の門弟名簿には「末永頼太郎・号■江・長門国赤間関市」がある。

平成12年3月

奈良県添上郡月ヶ瀬(そえがみぐんつきがせ)の「騎鶴楼(きかくろう)」には、明治15年3月、森琴石が襖に書いた「詩書」及び画帖への詩書画がある。月ヶ瀬は、広域にわたる渓谷を臨む梅景が、香世界と称され大正11年「国名勝」に指定され保護されることになった。古くから斉藤拙堂や梁川星厳、紅蘭夫妻・頼三陽などの文人墨客、西園寺公望・井上毅・住友吉右衛門などの政財界の要人が頻繁に訪れ、挙って揮毫したものを宿所に遺した。当時は数多い宿舎のうち「騎鶴楼」のみが、往時の姿を現在にとどめる。森琴石は自身の詳しいスケッチ帖をもとに、銅版画や巻物など、月ヶ瀬に因む多くの作品を遺している。

現在「騎鶴楼」は宿泊及び一般公開はされていません。



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