森琴石(もりきんせき)1843〜1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成20年(7月)

 

暑中お見舞い申し上げます

今月の話題

森 琴石長男「森 雄次(雄二)」が残した写真
〜 三井銀行勤務時代(一) 〜
(画像の容量の関係上、8月度に分けてご紹介します)
【1】

「森 雄次」は明治4年9月6日に生まれた。明治13年10月”私塾(寺子屋)勉学”修了後、<三井銀行大阪支店 注1>に見習いとして奉公した。

その後、山口県赤間関分店(現下関市 M19/7)に行き、明治21年に本採用された。以来、大阪茨木(M25)・広島(M31頃)・小樽(M40)・東京から大阪西支店(M45)へと転勤を重ねた。大正10年6月、勤続40年表彰を受け退職した。本採用される際に出した、保証人の氏名を書いた<銀行提出用の書類の控え>が残されている。本採用の前、赤間関への勤務が決まった時、森琴石が息子<雄次>に書いた手紙からは、森琴石の<親心>を知る事が出来る 注2。森家には、転勤で勤務した各地での記念写真や、転勤辞令証や、給与証書など多数残されている 注3

森琴石は、息子<森 雄次>の転勤先には必ずついて行き、その地で画活動をしたという 注4

「森 雄次」は、当時流行の最先端をいく「ボート部」に所属しコック(舵取り)をつとめた 注5

「森 雄次」は書が巧みで銀行の祐筆係を兼務した 注6。また計算が得意で行内の計算大会では毎回優勝していたと伝えられている。

「森 雄次」は、「琴雨」の号で詞(うた)を詠み、「読売十句粋」(尾崎紅葉選)投稿の常連でもあった。漢学では「琴荘」の号を用いた 注7。毎年森琴石の自宅で開かれた<画会>では、庭園注8 に設けられた茶席で”茶会の亭主”を務めさせられていたという。

 
 
注1
 

”三井銀行大阪支店”での見習い期

明治14年〜19年(雄次9歳〜14歳)頃

”三井銀行大阪支店”での見習い期

写真全体像

写真全体像

↓

葛城思風

☆写真撮影=大阪淀屋橋南詰南入  葛城思風

 
注2
 
辞令
明治19年7月16日(雄次15歳・赤間関出張店辞令)

辞令

 
注3
 

★森 琴石〜森 雄次への手紙(赤間関勤務に際して)

明治19年8月1日


森 雄次への手紙

★手紙の内容=勤務態度について、目上の人や周囲の人への礼儀や感謝の気持ち、金銭を取り扱う者の心得、交友関係や健康管理についての諸注意、誘惑に負けない強い意志を持つ事など・・・が書かれている。



★大阪勤務時代の写真

(1)明治28年1月元旦(雄次24歳・大阪)

大阪勤務時代の写真

☆写真撮影=大阪淀屋橋南詰南入  葛城思風



裏面
森雄次 自作の和歌(自筆)

森雄次 自作の和歌



(2)明治29年10月1日(雄次25歳・大阪)

・・・裏に ”前支店支配人岩下清周氏送別記念・支配人邸” とあり

大阪勤務時代の写真2

森 雄次・・・・・・3列目中央(口ひげがある)

☆写真撮影=銘記は無いが、外枠のデザインが葛城思風と同一

 
注5
 

ボート部の写真 (広島勤務時代)

明治31年6月18日(雄次27歳・ボート部・広島市水主町公園)

ボート部の写真(広島勤務時代)

☆写真撮影=広島市元安橋西詰 片山精三


 
注4,6.7.8 当HPでの記述箇所
  森 雄次"三井銀行"記述=「平成11年6月
雄次の転勤先での画活動=「平成20年3月【2】■2番目」・「平成16年12月■2番目
銀行の祐筆係=「平成18年6月【2】◆2つ目
号琴雨、琴荘=「平成18年5月【4】
森家自宅庭園=「平成19年9月【1】」・「平成19年10月【1】
 


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