カバー


主 要 目 次


    Ⅰ 銅版画

    Ⅱ 文人画 ・ 書

    Ⅲ 下絵 ・ 画稿など


    論文

     銅版画師 響泉堂をめぐって
     近代大阪の南画家 森琴石 ― その生涯と作品 ―
     森琴石と西洋画
     地方文化と森琴石
     琴石と妻鹿友松
     森家所蔵写真についての考察


    資料

     『雲来詩鈔』 『学海画夢』抄
     印譜 ・ 落款
     響泉堂所鐫銅版書目
     森琴石 年表
     作品目録



84
熊田司・橋爪節也 編 「森琴石作品集」


 2010 年12月 初版第1刷、 東方出版株式会社。 ISBN978-4-86249-167-1
 A4版、 上製、 カバー装、 252頁 (カラー136頁/モノクロ116頁)。


 今回は、異例であるが、この新刊書を紹介する。

 まず、森琴石 について。
 当書籍館でかつて紹介した 「近世絵画史」 において、著者 ・ 藤岡作太郎は、東京や京都の文人画が衰微した明治20年代以降も 大阪のみは余勢を保っているとして、その中心的人物 ・ 森琴石の名を挙げていた。  しかし その後の美術史 ・ 絵画史等では、文人画への注意が薄れて琴石の名も逸せられ、一般にはあまり知られなくなっていると思われる。 刊行元 (東方出版) が作成した本書の内容見本に、きわめて簡潔な琴石の経歴が紹介されているので、はじめにそれを掲げることにする。
 1843(天保14)年 兵庫・有馬に生まれた森琴石 (もり・きんせき)は、大阪南画界の異才 鼎金城の門に入り、師没後は 忍頂寺静村に師事。 また 大阪の儒学者 妻鹿友樵らに漢籍・詩文を学び、東京に出て洋画にも接する。 一方で 当時日本に滞在していた清人南画家たちと交流し、新しい時代の表現を追求した。 晩年には 文展審査員を務め、帝室技芸員にも任ぜられた。1921(大正10)年 大阪で78歳の生涯を閉じる。
 この経歴には、琴石が、文人画家としての必要な修練を経、さらに高度な研鑽を積んで大成し、当時の画人として最高の栄誉を得るに至ったことが示されている。
 ただ、明治初年に銅版画師として活躍したという、琴石を特徴づける、興味深い事実に関する記述が欠けている。 銅版画師としての琴石は、「響泉堂」 という工房を営み、絵画としての銅版画以外に、広範な分野にわたる銅版印刷物を世に送り出した。 … 当書籍館でも、響泉堂の印刷に関わる 「絶句類選評本」 を紹介したことがある。

 本書 「森琴石作品集」 は、この銅版画 ・ 銅版印刷の分野での業績と、在世時に高い評価を得ていた文人画家としての業績、の両面について、それぞれの作品 (制作物) と専門家の手になる論文・資料を収録したものである。
 このため本書は、前半が カラー図版、後半が 論文・資料、と大きく二つの部分から成り、前半のカラー図版部分は、さらに、「銅版画」、「文人画 ・ 書」、「下絵 ・ 画稿など」 の三部分に分かれている。

 カラー図版の 「銅版画」 部分には、工房 「響泉堂」 が制作した銅版印刷物が全体的に掲げられている。 その中では書籍の比重も大きいのであるが、琴石自身が手がけたものは絵画が多いと考えられるところから、「銅版画」 をタイトルとしたのであろう。 実に多様な印刷物が掲げられていて、頁を繰るのが楽しい。 始めの方には、商店の広告チラシ、商品ラベル、証券、名所絵、肖像画、書籍の扉、などの試摺がある。 これらは、琴石が工房創設の頃に作成した見本帳に貼付されていたため、残ったものである。 こうした幅広い分野を模索しつつ、印刷事業を立ち上げていったのであろうが、明治十年前後、地図や書籍を中心とした仕事が軌道に載ったらしく、それらの制作物が並んでいる。 銅版印刷の工房は他にも存在したわけであるから、特徴ある刊行物も残存しているであろうが、本書のようなカタログとしては まとめあげられていないのではなかろうか。

 次の 「文人画 ・ 書」 の部分には、最初に、琴石の代表作ともいうべき 「月瀬真景図」 が置かれている。 明治15(1882)年3月、琴石は漢詩人・石橋雲来らとともに月ヶ瀬梅林を訪れ、このときの印象とスケッチをもとに本図を制作、同年10月の第1回農内務省内国絵画共進会に出品して褒状を受けた。 画家としての声価を確固たるものとした、作品といえよう。 この図は、森琴石ホームページにも掲げられているが、かなり縮小した画像であるため、もどかしさを感じさせる画質であった。 それが本書では、見開き2頁にわたって、筆づかいが感じられるような高品質の画像で、再現されている。 原作が縦 60cm、横 251cm という 横長の大作であるから、これももちろん縮小図ではあるが、原作の見事さを彷彿とさせるものである。
 「月瀬真景図」 をはじめとして、 「文人画 ・ 書」 の部分には 57点の作品が掲載されている。 このうち、琴石ホームページで公開されているのは 4点である。 また 私自身が実際に観たことのある琴石の作品は、三の丸尚蔵館所蔵の 「函嶺蘆湖図」 のみである。 そのため、大部分の作品が初めて目にするものであり、この作品集によって、ようやく琴石の文人画の世界に足を踏み入れることができたように感じる。
 琴石の本格的作品群を通覧して 驚くのは、描画の緻密さである。 木の葉の一枚一枚、山襞の一つ一つを丹念に画きこんだ作品が多く、「月瀬真景図」 のように筆の動きをそのまま画面に表示させたものの割合は、少ないように思われる。 緻密な描法による作品においては、その緻密さが、構図の確かさと相俟って、画面に高い緊張を生じ、神韻渺茫たる仙境を現出している。
 また、奇抜な形状の岩山が多いことも、琴石の画の特徴ではなかろうか。 文人画は、写生から展開される絵画というよりは、観念的な発想によってイメージを創造する面が強いので、独自の理想郷の追求が、こうした岩山形状の激しさとなって表われるのであろう。 大阪という繁華な大都会にあって、深山幽谷を描き続けた琴石の心情が、いろいろと想像されるのである。

 琴石の構図の確かさをよく示しているのは、「下絵 ・ 画稿など」 の部分に収められた各図版である。( 下絵とはいうものの、丁寧に描かれた精密なもので、修正もあまり見られない。)
 例えば、「蘭亭図大下絵」。 園林の中を屈曲する流れと、その流れの周辺に思い思いに座を占めて詩賦に興ずる人々が、描かれている。 これらの流れや人物は、しっかりと存在する樹木の下に見え隠れしているのであるが、全体の様子は手に取るようにわかる。 細部と全体との調和が、計算しつくされているからである。

 「論文」 の部分では、各項目について、それぞれの分野の専門家が、現在における最高水準の研究成果を開示している。 特に編者2氏の重厚な論文 ( 熊田司 「銅版画師 響泉堂をめぐって」、橋爪節也 「近代大阪の南画家 森琴石 ― その生涯と作品 ― 」 ) は、琴石の業績を詳細に掘り起こし、その意義を明らかにしている。 また、琴石ら文人画家の活躍を支えた、地方の富裕層や文化人に関する考察 ( 槇村洋介 「地方文化と森琴石」 ) も、興味深い。 これらの論文が、後続研究における基本文献として、今後大いに参照、利用されるであろうことは、間違いないと思われる。

 「資料」 の部分に収められた各篇も、長年にわたる調査研究の成果物で、今後の基礎資料として貴重なものばかりである。 琴石の人物や作品制作過程に関する文献として、石橋雲来の 「月瀬遊詩並びに記」 などが、訓読文 ( 多治比郁夫氏 ) により掲げられているのも、気の利いたことであると思う。

 琴石の曾孫 ・ 森隆太氏による 「あとがき」 によれば、本書の出版が意図されたのは、平成10(1998)年のことであったという。 途中、種々の事情による遅延も生じたであろうが、完成までに12年を要したことが、決して不自然には感じられない、充実した内容である。


 新刊書の紹介として、本書全体については以上の概略的説明にとどめ、以下では、本書中で注意が及んでいない画賛や書 (書幅) の内容に着目し、これらに含まれる詩のいくつかを取り上げ、「森琴石 題画詩選」 として紹介することとしたい。
 それぞれの詩は、まず その詩が記された作品の図版番号 ・ 図版名称を掲げ、その後に原詩および訓読文等を掲げる。
 なお、詩のあとに付された、制作年月 ・ 場所の記述、署名などは、原文をそのまま掲げるにとどめる。

 これらの詩を読んでいくと、琴石は漢詩人としても一流であり、いわゆる 「詩書画三絶」 の人であったことに気付くであろう。





森琴石 題画詩選



1  月瀬真景図  (七言絶句)

香風吹送半林烟香風 吹き送る 半林の烟
月瀬尾山齊皎然月瀬の尾山 斉しく皎然
阪路崎嶇不嫌遠坂路は崎嶇たるも 遠きを嫌はず
爲花辛苦亦因縁花の為に辛苦するも また因縁
 壬午九月画 於 聴香盧 并 題 浪華 琴石
(明治15年)
〇 皎然 : 一面に白い。  〇 崎嶇 : けわしい。  〇 因縁 : 機会 (仏教的意味ではなく、漢語本来の意味)。

 「月瀬真景図」 は、前記したように 横長の大作で、画面右上から左下にかけて流れ下る渓水と、それに沿って豊かに拡がる梅林を、手前の山のかなり高い位置から俯瞰したものである。 背後に連なる山々は、山水画特有の 「つくね芋」 風にデフォルメされているように感じるが、一面に花をつけた梅の木々や、大小の石が頭を出している渓谷は、写実的で、遠近表現も巧みであり、琴石の文人画中 最も生気あふれる作品である。
 詩は、図の左上に記されている。 左側が低い方、つまり登ってきた方なので、詩の内容に合っているようである。

 第一句、梅の香りとともに、けむったような梅林の 半ばほどが見えてきた。 (烟は、かすみ というよりは、はなやいだ雰囲気 を表している。)
 第二句、はるか前方の尾山のあたりは、一面の白である。
 第三句、梅林までの坂道はなかなか険しいが、遠くてもぜひ行き着きたい。
 第四句、花を堪能するための、こうした苦労も、なかなか良いものだ。

 この詩は、この年の3月に石橋雲来らとともに現地を訪れた際の作であるが、そのことを示す作品が月ヶ瀬の騎鶴楼に残されている。 一つは、騎鶴楼の画帖に画とともに したためたもの (「文人画・書」 図版2)、もう一つは、襖に揮毫したもの (「文人画・書」 図版3) である。 襖の方には、「月瀬口号」 の付記があるが、口号とは、即興で作られ、吟じられた詩、の意味である。 それを一字も変えていないのは、琴石の作詩能力の高さを示すものであろう。



8  書  (七言絶句)

落筆湖山水墨成筆を湖山に落して 水墨成る
群峯杳渺夕陽明群峰 杳渺として 夕陽 明らかなり
江天更有堪摸處江天 更に摸すに堪ゆる処有るは
一鴈雪中呼侶聲一雁 雪中に侶を呼ぶの声
       鐵橋
 この詩のみは、題画詩ではなく、半折に雄渾な筆勢で書したもの。 (一気に書き上げたため、第三句中の 「堪」 字を書き落とし、最後に補っている。) 書としては、一見 きわめて豪放に見えながら、各文字に対する細かな神経が感じられる、変化に富んだ作品である。

 詩には、胸中にある山水の景を写し出す画家の、円熟した境地が表現されている。

 第一句、(筆をおろす紙帛の上には、既にありありと湖や山が見えているので、) 湖や山に筆をおろせば、水墨画は自然に出来上がっていくのだ。
 第二句、筆は、はるかに連なっている峰々を、また、それが夕陽に浮かんでいるところを、なぞっていく。
 第三句、おっと、この景色の中で、まだ筆が追いついていないところがあったぞ。
 第四句、近景の雪の中に、仲間を呼んでいるらしい一羽の雁がいるのだ。 あの鳴き声までも画き込まねば。

 これはつまり、詩中に画を成したもの、ということができよう。



10  桃花渓流図  (七言律詩)

雞犬人物總秦餘雞犬人物 総て秦の余
千樹桃花護隠居千樹の桃花 隠居をまも
不識三章新約法らず 三章の新約法
猶藏萬巻未燒書猶ほ蔵す 万巻の未だ焼けざる書
水通煙澗方容榷水は煙澗に通じたれば まさに榷を容れ
山暖晴嵓可命車山は晴巌に暖かなれば 車を命ずべし
不是阿房三百里しからず 阿房三百里
楚人一炬便成墟楚人の一炬に 便たちまち 墟と成る
       琴石
〇 三章新約法 : 漢の高祖が、秦の厳しい法令を廃止して、新たに公布した法。 殺人は死刑、傷害と盗みは処罰する、という三つの規定のみであったという。  〇 猶藏萬巻未燒書 : 秦の始皇帝による焚書を免れた書が、ここには残っていた。  〇 榷 : 丸木橋。  〇 阿房 : 始皇帝が渭水の南岸に築いた壮麗な宮殿 (阿房宮)。  〇 楚人一炬便成墟 : 阿房宮は、秦を破った楚の項羽によって焼かれ、廃墟となった。

 「桃花渓流図」は、重畳たる巨岩が画面を圧している。 一番下の岩には洞穴があって、渓水が流れ出ており、その流れに棹さして小舟を操り洞穴に入っていこうとする、漁夫らしい人物がある。 目を少し上に転ずると、上下の岩の間の部分には、梢にピンク色の花をつけた木々があり、これら花をつけた木々は岩の向こう側の斜面を覆うように続いているらしい。 さらに目をこらすと、手前の岩山と遠くの岩山との間の雲海には、家屋が点在していて、人の安住できる空間が存在するようである。 こうした配置から、これが陶淵明の 「桃花源の記」 の景を描いたものであることは、明らかである。

 第一句は、「桃花源の記」 をテーマにすることを宣言したような部分で、その記述をなぞっている。 漁夫が迷いこんだ桃花の地は、「秦の時の乱を避け」 て 隠れ住んだ人たちの子孫が共同生活を営み、「雞犬互に鳴吠す」 る 平和な村落であった。
 第二句は、この地のシンボルである桃の樹林について、村落を遮蔽して隠れ住む人たちを守ってきた、という役割を与えている。
 第三句 ・ 第四句では、これらに詩人の想像が加わる。 この村人たちは、漢の高祖が制定した三章の法は、もちろん知らないだろう。 また、先祖が移住するとき携えてきた多くの書物は、秦の焚書に遭わなかったのだから、そのまま残っているのではないか。
 第五句 ・ 第六句では さらに、この別天地との間を行き来することを、空想する。 渓水が通じているのだから、そこに丸木橋を懸ければよいし、天気の良い 暖かな日には、車を利用してはどうだろうか、と。
 第七句冒頭の 「不是」 は、現代中国語の “ bú shi ” のニュアンス ― 「いやいや、そうではない」 とか 「それはダメだ」 とか いうような ― で、間投詞的に挿入されているように思われる。 つまり、否定しているのは、第五句 ・ 第六句の空想であって、第七句・ 第八句は、否定の理由となる事実を挙げているのである。 秦の始皇帝が営んだ あの壮麗な阿房宮でさえ、楚の項羽に焼かれて たちまち廃墟になってしまったではないか、と。 そして言外に、橋をかけたり、車を通じたりすれば、こちらがわ俗世間の野心家たちによって、折角の別天地も台無しにされてしまうだろう、との意が示されているわけである。

 多くの故事を引いているが、述べられているのは 思考による遊戯のような内容である。 こうした遊び心も、題画詩の特徴の一つかもしれない。



25  秋景山水図  (五言絶句)

殘毫冩秋山残毫もて 秋山をゑが
山深人更遠山深くして 人 更に遠し
爲去訪幽人きて 幽人を訪ねんとるに
去踏不知返去踏して 返る (や否や) を知らず
 乙未秋日 冩於 東濃妻木 崇禅精舎 南窓下 琴石 森熊
(明治28年)
〇 殘毫 : ちびた筆。  〇 幽人 : 世間を避けて静かに暮している人。  〇 去踏 : 他に用例を見ないが、(山中に) 出かけて歩きまわる、意であろう。

 「秋景山水図」 は、きわめて典型的な (あるいは類型的な) 構図と描法による水墨山水図である。 旅行中の滞在先において、おそらく短時間で制作した作品であるから、新たな工夫などを加えず、無難にまとめたのであろう。
 前景の渓水に沿った小径を、杖を手に歩む人物がおり、上方を見上げている。 その視線方向の山あいには、これから訪ねて行く先らしい家屋が、小さく見えている。

 詩の意味は明らかで、語釈に重ねて、解説を加える必要は ないであろう。
 第三句 ・ 第四句は、唐の賈島の有名な五言絶句 「隠者を尋ねて遇はず」 を、意識している。

 詩画ともに、臨機応変な 琴石の器用さを示したものである。



44  青緑春江花塢図  (七言律詩)

迤邐沙隄接畫橋迤邐イリたる沙隄は 画橋に接し
東風楊柳暗長條東風に 楊柳は暗く長条たり
鶯隨玉笛聲偏巧鶯は玉笛に随ひて 声 偏に巧みに
馬受金羈氣益驕馬は金羈を受けて 気 益すます驕る
舞榭歌臺臨道路舞榭 歌台 道路に臨み
佛宮仙館入雲霄仏宮 仙館 雲霄に入る
西湖春色年々好西湖の春色 年々うるはしく
底事詩翁歎寂寥底事の詩翁 寂寥を歎ず
     琴石 森熊
〇 迤邐 : 連なり続く。  〇 畫橋 : 装飾を施した美しい橋。  〇 金羈 : 立派な たづな。  〇 底事 : とるにたらぬ、つまらぬ人物。(底は低に、事は士に、それぞれ通用)

 「青緑春江花塢図」 は、薄墨と淡彩とで 初春の湖水の景を画いた、明るく、のびやかな作品である。 湖畔のあちこちには、芽を吹いたばかりの柳があり、ところどころ桃の花も見える。 手前の丘の道には、杖を手にした隠逸らしき人物が一人。

 詩の方は、画の趣きとは少し異なる、華やかな光景をうたっている。

 第一句、長く続く土手は、美しい橋につながっており、
 第二句、春風に吹かれて、柳の木々は 黒く煙ったように枝を伸ばしている。
 第三句、鶯は、笛の音に合わせているかのように、巧みな鳴き声を響かせ、
 第四句、馬は、貴人のたづなに操られて、気持をたかぶらせている。
 第五句、舞踊の小屋や歌唱の台が、道路に面して設けられ、
 第六句、遠くには、仏教や道教の寺院が 霞んで見える。
 第七句、西湖の春景色は、今年もこのように見事で 申し分ないが、
 第八句、この老いぼれ詩人にとっては、それとても 何となく うら悲しい。

 そうすると、この画は西湖を描いているわけだが、人々の行きかう華やかな所ではなく、そういう所に入り込めない第八句の老詩人が、悲哀をかこちつつ歩きまわっている、やや寂れた場所なのであろう。
 琴石は、自らが画中に描き込んだ老詩人のために、この詩を作ったわけである。



〔月ヶ瀬写生〕 3 寒山図  (七言絶句)

寒山一路入林分寒山の一路 林に入りて分かれ
隔谷鐘聲帶夕曛谷を隔つる鐘声 夕曛を帯ぶ
盡日尋花々不見尽日 花を尋ぬるも 花 見えず
天飆吹落古陵雲天飆は吹き落す 古陵の雲
〇 寒山 : さむざむとした山。  〇 天飆 : 天に吹きすさぶ大風。

 「月ヶ瀬写生」 は、石橋雲来らと月ヶ瀬梅林を訪れた際の、写生帖らしい。
 この 「寒山図」 の頁には、右側に まずこの七言絶句が記され、その左側に、松や杉に囲まれた寺院らしい建物、その背後の岩山などのスケッチが、続いている。 左右の岩山に、文殊石、薬師石の名が記されており、そのうちの薬師石の名が一致するので、この寺は 雲来の 「月瀬遊記」 にいう文殊院であろう。 笠置山中の、かなり険阻な所のようである。

 第二句、谷の向こう側から聞こえる鐘の音とともに、たそがれてきた。
 第三句は、山道を歩きながらずっと花を探していた、ということだが、このように花を恋うるのは、憧れの月ヶ瀬梅林への到着を焦る気持の表れかもしれない。
 第四句は明らかに、藤井竹外(1807~1866)の有名な七言絶句『吉野』中の「古陵松柏吼天飆」(古陵 松柏 天飆に吼ゆ)の句を踏まえている。 竹外の詩における「古陵」は、吉野・如意輪寺にある後醍醐天皇陵を指し、詩全体として尊皇の思いが表現されているのだが、この詩では単に、 往古の天皇の陵墓が散在する地域(奈良、京都の郊外)に入ってきたことを意識して、「古陵」の語が用いられているにすぎないと思われる。 上空の強風で雲の流れが速くなり、まるで古陵の散在する地域の雲を吹き落とさんばかりである、という当日の状況を、竹外の詩句を利用して印象づけたのであろう。



〔月ヶ瀬写生〕 6 舟中観鴨長堤  (七言絶句)

山巓煙樹碧空横山巓 煙樹 碧空に横たはり
曉靄不遮溪水聲暁靄は 渓水の声を遮らず
笠置鴨村無限景笠置 鴨村 無限の景
扁舟自在畫中行扁舟は 自在に 画中を行く
〇 笠置 鴨村 : 琴石らが月ヶ瀬への往還に、舟で通過した木津川沿いの村々 (現在の木津川市加茂町、相楽郡笠置町)。

 この 「舟中観鴨長堤」 と題した頁は、月ヶ瀬梅林の中心部をスケッチした頁の後に掲げられているので、帰途に描いたものであろう。 右半分は 川の流れと平行方向の岸の木々を見た景、左半分は 流れの前方 (後方?) に山を見た景、 の2つに分れており、詩はその間に記されている。

 第二句は、朝もやが一面に立ちこめていても 谷川の音ははっきり聞こえる、ということであるが、スケッチの川 (木津川) は川幅もかなり広く、ゆったりと流れているので、この川に流れ込む小さな 「渓水」 の音を聞いているのであろう。
 第四句は、いわゆる 「画のような風景」 ということを、よりダイナミックに表現している。 あるいは画家として、画に仕立て上げるための構想を加えながら、実景を見ている。



らんだむ書籍館 ・ TOP
 2011年 4月 作成   小林 昭夫