森琴石(もりきんせき)1843〜1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成21年(7月)

  今月の話題

門弟「嘉本周石」のエピソード

【1】 嘉本周石は、森琴石晩年”若手のホープ”だった
当時の美術界の実情
第2回帝展に入選=森琴石逝去4か月前
【2】 森琴石歿後の嘉本周石
生き方=森琴石の文人魂を、昭和50年代にまで繋げていった

【1】

明治後期から、森琴石が死去する大正10年にかけて、森琴石門下では、森琴石の若年時からの”老いた弟子”のみならず、若手の門弟までが次々と病気で亡くなった。そのような時期、明治42年、島根県の片田舎から、はるばる大阪まで学びにきた前途有望な画家志望がいた。師範学校を出、教鞭まで執った「嘉本周石」という、素直で飾り気の無い若干20歳(はたち)の青年である。

森琴石一門では、船場の旦那衆などが、趣味として画を嗜む者以外は、森琴石の画の指導は半端ではなかったと思われる。南画の技法やジャンルは勿論の事、四書五経など、画賛や絵画の鑑賞に必要な教養を身につけさせた。森琴石の門下は、レベルの高い教養を身につけた人物が多かったようだ。

しかし、時代の潮流は、南画は新南画へと、画風が変わり、旧来の、南画の本場中国から伝わった文人画の手法や教養、その精神性を大事にしたいとする一派は”旧派”と呼ばれ、”古臭いもの”と捉えられた。一方、新南画では、線を描かない”朦朧体”という手法がもてはやされた。むしろそのような画風でないと売れにくく、生活の糧としての十分な画料が得られなかったのだ。読解が難しい画賛も不要で、一般人に解り易い絵画は急速に広まっていった。

嘉本周石が入門した時期、美術会では旧派や新派の分裂がたびたび繰り返されていた。「嘉本周石」は、森琴石指導のもと、着々と実力を蓄えていた。大正2年、嘉本周石25歳の時、師匠の森琴石は「第2回文部省展覧会(文展)」の審査員に推挙された。「平成19年2月【1】■6番目&注8」でご紹介していますが、森琴石は苦悩の裡に審査員を引き受けた。

この年を最後に、翌大正3年から「南画正派」を自任する一派は、今後大きな「冠展」や「官展」には一切出品しないと取り決めをした。これら美術界の一連の分裂の経緯は、「美術五十年史 注1」(森口多里著/鱒書房/昭和18年6月刊)に詳しい記述があり、またインターネットでも紹介されている。森琴石門下では、個々に絵画組織を展開している者以外、森琴石一門の立場としては、その後、殆どの絵画組織には参入しなかったようだ。

大阪の美術界でただ一人文展の審査員となった森琴石は、大阪の他の南画派や日本画流派から 反感を抱かれるようになった。 粛々と自身の画道を邁進したいだけの森琴石は、それら雑音には一切惑わされず、淡々と日々研鑽に励んだ。しかし不愉快な動きが周辺に及んでいた。森琴石の偽物の絵が出回ったり、森琴石を排除しようとの動きがあった。「平成20年2月【2】注3」で、間部霞山が”絵画界の現状をなげく”で書かれている事は現実にあったようだ。森琴石が近藤翠石に宛てた書簡には、「XX記者とのやりとりには慎重を期すように・・・・」と注意を促している 注2。近藤家がこの書簡を、わざわざ表装までして残していたたという事は、その後、何か懸念するような出来事があったのかもしれない。

このような実情は、嘉本周石ら若手には大きな打撃となる。森琴石門下では、中堅以上は、絵画展での受賞を重ね”認知された画家”として地位を築き、弟子や贔屓筋を持っていたが、「嘉本周石」ら若手新人にとっては”展覧会”という、自身の実力を試す”登竜門”となる道が閉ざされてしまったのである。

そのような状況下、大正9年秋、嘉本周石は「第2回帝国絵画展覧会(帝展)」に作品2点を出品した。しかもその2点共入選を果たした。周石31歳、森琴石入門12年目の出来事である。しかし、前述の「大きな官展には出品しない」という斯界の約束事を破った事となり、手放しで喜ぶ分けにはいかなかった。

大正9年といえば、「森加津の日誌」では、森琴石は、5月以来危篤状態を繰り返していた。前年の10月には、森琴石の長女「昇」が他界していた。愛娘の先立ちは、森琴石にとって”耐えがたい不幸”であった。そのような状況下、森琴石の周辺では、この”嘉本周石の入選”をどのように受け止めたのであろうか?

偉業をなしたとは言え、嘉本周石は、森琴石門下では先輩たちの画力には遥か及ばなかっただろう。南画の画法の中には「朦朧体」のような描き方がある。画法を積み重ねた者ならば、それほど難しい描き方ではない。兄弟子など周辺の者は、森琴石の心情や病状を懸念し、或いは森琴石自身が、門下の兄弟子達を気遣い周石を叱責した可能性がある。その4ヶ月後の2月24日、森琴石は78歳の生涯を閉じた。



注1
森口多里著「美術五十年史」=森琴石の記述ヵ所が10か所ある。


注2
森琴石⇒近藤翠石宛書簡




森琴石⇒近藤翠石宛書簡
右から3行目下、庭山耕園の名あり



◆書簡ご提供者=近藤成一氏(東大阪市・近藤翠石孫)



【2】

森琴石の歿後間もなく嘉本周石は、中国朝鮮を遊歴し、画の研鑽を積んだ。この時期、帝展に入選すれば、美術年鑑に相場価格がつく”一流画家”として名が出たはずなのに、嘉本周石はこれを拒んだ。

以後、大阪、東京の百貨店、京城美術倶楽部などで、個展や花道家元との共同展を重ねる。
戦後は、美術家や美術団体からの働きかけにも心を動かさなかった。画の売却には大手の美術商を介さず、金持ちのパトロンも持たず、郷里で淡々と好きな画を描き続けた。孤独とも言えるその生活は決して豊かでは無かったという。
戦後は森琴石の門下生たちは殆どが他界し、かつての同門先輩たちに気遣う必要は無くなった。自ら求めればいくらでも「大先生」の地位を築け、金儲けが出来たはずだが、嘉本周石の心の内にある”高邁な文人精神が、そのような”俗物的な欲望”を排除したのかも知れない。

森琴石は、徹底して高邁な文人魂をもち続けた”文人中の文人”だったが、嘉本周石は、その師匠の心を、”昭和元禄”と称された、昭和期の後半にまで引き継いでいったようだ。嘉本周石は、若くして逝去した先輩たちが、その志を最後まで果たせなかった分まで引き受けた。嘉本周石は、森琴石にとっては”本望”な弟子を持った事になる。

嘉本家の画帖には、嘉本周石が修錬に励んでいた頃、大正6,7年頃の、森琴石・周石を含む、門下「近藤翠石」「西尾雪江」「石野香南」「増田東洲」が揮毫したものが残されている。下記にその一部をご紹介します。「昌雲」「珠石」や、数名の号名不読者など、これまでの森家調査で名が出ない人物の画もある。嘉本家の画帖や周石の作品類は、今後調査の必要がある。



嘉本家画帖より


画:嘉本周石  ―稲佐湾(島根県出雲市大社町にある海岸)―




画:石野香南  ―大正6年1月―




西尾雪江画  ―大正6年―




増田東洲画 ―大正7年―




◆画像ご提供者=槙村洋介氏(飯田市美術博物館)・・・・画像は、平成15年10月、嘉本家調査時で撮影した紙焼き写真を使用しています。


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