森琴石(もりきんせき)1843〜1921
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森琴石 門人紹介

これまでに収集した資料による森琴石の門弟の紹介、
および森琴石に画を習ったとされる門人名を出身地別に紹介します。
(注:一部の門人名や画号の読み方に間違いがある場合もあります)
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主な使用文献、資料
1:明治30年時の「門弟名簿」 資料ご提供=大熊敏之氏(宮内庁三の丸尚蔵館)
2:「続浪華摘英」(発行兼編纂 三島聴恵・大正五年十二月刊)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供
3:「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)=渡辺淑寛氏(栃木県真岡市)よりご寄贈
4:「大日本書画名家大鑑」(荒木矩著・第一書房発行・昭和50年1月)
5:「増補 古今日本書画名家辞典」(玉椿荘楽只著・大文館発行・昭和14年)
6:「京阪神における事業及人物」(山川茂雄編輯発行・東京電報通信社発行・大正8年10月)
7:森琴石日記
  (明治42年8/3 〜10/7、明治45年2/15〜7/31、大正元年8/1〜10/5 間での断片的に残るもの。
   「近藤翠石」などのように、日記内記載が多い門弟については省略する。)
  翻刻者=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)
8:その他

中部・北陸・東海地区

石川県

石野香南 (いしの こうなん)
石野香南
写真は「姿態横生」より
(一)
名は徹、字は子徹、香南は其の號、明治六年一月金澤に生る。初め画を青山観水に学び、後垣内雲りん(山+米の下 舛)の門に入る。傍ら木蘇岐山に就て詩を学ぶ。後東京に遊学すること十許年。明治四二年居を大阪に移し、更に画法を森琴石に質す。住所、兵庫県下西ノ宮如意寺内 (「姿態横生」)


(二)
森琴石日記

明治42年8月3日
●石野香南来ル、類焼ニ付、今日ヨリ灘住吉知人方ヘ一家引越旨申之

明治42年8月19日
●木蘇岐山翁来ル、石野香南類焼致ニ付、知己(詩会之人々)ヨリ半切画会、
  来月十四日開催後策致シ遣候様相成ニ付、補助承諾致呉候様依頼ニ付、承知ス、

明治42年8月23日
●午後、石野香南来ルニ付、南宗画会ヨリ類焼見舞金相贈ル、金員相渡、領収書受取置、
  夕方、奥田来ル、

大正元年8月11日
●朝、石野香南、中元ニ罷越し、品物到来、


福井県

岩田壽石(いわた じゅせき)
(一)
岩田太造:号壽石・越前国南条郡武生町字蓬莱(明治30年11月23日付門弟名簿)


(二)
通称太造と云ふ、嘉永四年九月四日越前其地に生る。森琴石に従い南宋画を修む。大阪南宋画会員たり。明治廾四年五月南越絵画共進会に於て銅牌を受け、三十六年十月第五回全国南画共進会に於て褒状を受く其他受賞すること数回、現に福井県南条郡武生町(なんじょうぐんたけふ)蓬莱區(ほうらい)に住す。

「増補 古今日本書画名家辞典」(玉椿荘楽只著※・大文館発行・昭和14年) ※玉椿荘楽只=岡不崩


岐阜県

福田哲山(ふくだ てつざん)

福田哲山

(一)「京阪神における事業及人物」より

福田哲山

多年東洋美術の振興に力を尽くし、気品高潔にして画人の素質を備え資性温雅 にして清楚の人。岐阜県恵那郡苗木町の人にして苗木藩遠山友臣の給人福田忠 蔵氏の三男たり。幼より翠巒清溪の邊りに秀粋の気を吸い、最も風雅の志あり。

賦性画を好み十四歳にして故郷を去りて、大阪に出て森琴石翁に師事して、専 ら斯道の研鑚に従事し、其技術を練磨せり。運筆枯秀にして雄大其画風、時流 に超越し益々声明を挙ぐ。

明治三十五年日本美術協会に出品して二等賞状を受け、又同年日本展覧会に入 選し、爾来博覧会、共進会等にて受賞せられし事十余回に及べり。先年畏くも、 天皇皇后両陛下に献納の栄荷い、又皇后職より御用画を被命の光栄に浴せり。 一昨年四月 備後福山市制記念博覧会審査主任を嘱託され、又新潟市催博覧会 審査主任の要職に当りたる等、君の技能実力を證するの余りありと言うべし。

而して益々斯界の為に尽くす処あり。現に扶桑会、東洋美術奨励会、帝国画会 等の幹事たり。門下、教えを請ふ者多し。又四方より揮毫を請ふもの群を為す。

君の美術観に於ける東洋の画風を厳守し以って其精華を世界的に益々発揚せん とするにあり。これを以って東洋美術奨励会に、又は扶桑会に、帝国画会と常 に力を注ぎて、斯界の発展に努力せり。其意気の旺んにして美術に忠なる以っ て君の人格を窺い知るべきなり。令室正子女史は紀州和歌山藩士瀧本綾之進氏 の長女にて、能く家庭を助け琴彗相和し雅福愈々隆し。

給人=江戸時代、蔵米(くらまい)ではなく知行地を与えられた武士


福田梅渓(ふくだ ばいけい)
(一)
梅渓は其號にして宮吉を以て通称となす、慶応三年十一月廾八日美濃苗木町に 生る。南宋画を森琴石に学び、日本南宗画会幹事となれり。其褒状を受けたるは、二十四年に於ける名古屋絵画展覧会、二十二年大阪絵画協会に於ては二回及び三十三年十一月日本美術協会なり、而して二十三年に於ける東洋美術奨励会に於ては優等賞を得たりと言ふ。現に大阪市北区伊勢町に住す。

「増補 古今日本書画名家辞典」(玉椿荘楽只著※・大文館発行・昭和14年)


(二)
森琴石日記

明治42年8月13日
福田梅渓、過日ヨリ東京親族ニ用向有罷越し、昨夜帰宅之由ヲ以、罷越し、 堀木ヘモ立寄呉候由、昇、病気矢張不宜由、帰路岐阜・辻ヘ立寄候由、 辻ヨ(リ)団扇五本事傳、持参ス。

明治42年:8月1日
明治45年:4月23日・5月28日・6月1日、同22日・7月16日
「福田梅渓来ル」、「福田梅渓稽古ニ来ル」など 類似内容の記述

注:「福田哲山」と「福田梅渓」は、同一人の可能性あり。現在調査中。



愛知県

森 泰石(もり たいせき)

明治3年(1870)〜昭和15年(1940)

(一)
葉栗郡島村(現一宮市)の生まれ。名は豊次郎。字は子秀。別に萬翠園と 号す。
同郷出身の森半逸(一八四八〜一九四○)は、従兄弟にあたる。
初め森 琴石に入門し花鳥画を学び、のち大橋翠石(大垣在)について動物画を研鑚した。
特に虎を描くのを得意とし、宮内省の御買い上げとなるなど、その写実の技には定評があった。
半田の山本梅荘(一八四八〜一九二一)とも親交が厚か った。
晩年は島村の地で郵便局長を務め、また、地域の文化発展に尽力した。

歴伝ご提供=毛受英彦氏(愛知県一宮市立博物館)


(二)
森琴石→森泰石宛書簡


明治39年10月28日付
封筒表:森琴石の画の印
岡不崩の書簡のものと同じ)
末尾から2行目に 森半景 の名もあり



(三)
森泰石・森半景  関係図

森嘉助 ・ いと(妻)  
 
(長男)     (二男)  
森半逸   森半景(半溪) 森泰石
  (森半逸、半景 と 森 泰石は 従兄弟関係)
(半逸三男)森茂三郎=森泰石の養子となる(昭和20年歿)
(茂三郎長男)森逸男=大正10年〜平成14年・終戦復員後に、故森茂三郎に代わり森泰石の養子となる



森半逸=嘉永元年尾張国葉栗郡若栗村に生る。名は桂、字子静。六々彩半逸と号す。本名は嘉兵衛。村瀬太乙に詩文、村瀬秋水に絵画を学び、のち京都の前田半田(暢堂)に師事して南画を修め、特に山水花鳥画を得意とした。起(尾西市)の吉田嫁雲の門人でもあった
―毛受英彦氏(平成14年・一宮市博物館)より― ・・・・詳細は、後月別項目にてご紹介します

◆書簡及び、森泰石・森半景の関係=故森逸男氏(岐阜市・森半逸の孫、森泰石の森家継承者)

森逸男氏は、昭和20年に父森茂三郎が他界したので、終戦復員後に、故茂三郎に代わり森泰石の森家を継いだ。
森泰石などの多数の作品は、災害のために壊滅状態となり、残りの作品の一部が、一宮市博物館に寄贈された。
平成14年9月、森逸男氏より諸資料を頂きましたが、森逸男氏は平成14年12月に他界されました。



森 半景(もり はんけい)
安政5年(1858)〜昭和15年(1940)


(一)
名は静、字は子修、通称は嘉録、半景と号す。尾張国葉栗郡葉栗村に生る。
幼より絵画を好み、森琴石及び山本梅荘に従い南宋の画法を学ぶ。
曽って会へ出品して賞牌を受けしこと前後七回に及ぶ。
明治二十五年以来郷閭に書画研究会を設け同好を導き後進を誘掖す。
住所 尾張国葉栗郡太田島村。

「姿態横生」(明治44年7月刊・日本中央南宗画会刊)=栃木県真岡市渡辺淑寛氏ご寄贈



(二)
森嘉祿 字は子修、別号は無墨斎、安政五年尾張に生る。森琴石、田能村直入、山本梅荘に学ぶ、南画家。

「増補 古今日本書画名家辞典」(玉椿荘楽只著・大文館発行・昭和14年)

 


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