森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石紹介 Mori Kinseki

森琴石とは略歴写真・文献抜粋(南画編<明治時代><大正時代><昭和時代>・銅版画編)|
家族・係累(生家と森家・森琴石の家族・係累人物

生家と森家

■生家

 森琴石の実父


●関連事項=平成16年2月・森琴石紹介:略伝・略歴 など

梶木源次郎(梶木源治郎・梶木源二郎・かじき げんじろう)

梶木源次郎=森家過去帳・森琴石を紹介する文献・「有馬温泉誌」などで記述されている名称
梶木源治郎=梶木家謄本・梶木家過去帳
梶木源二郎=森家謄本


梶木源次郎 肖像写真     -アンプロタイプ(ガラス板の湿板写真)-

梶木源次郎 肖像写真

明治11年6月2日撮影 (67歳)

★森家には、ガラス湿板写真は現存していません。写真の上部と下方の破損が著しい部分は、カットしました。



家号
平野屋源次郎 (平野屋源治郎)
生没年=文化9年3月18日(1812)~明治25年1月20日(1892)、享年80
父=梶木源兵衛
妻=森琴石実母 (琴石が養子に行った2ヶ月後に死去)
名しげ?(弘化3年5月7日歿・法名 智願妙重大姉)
梶木家略系譜

梶木源次郎(源治郎・源二郎)
(娘婿)
(娘婿)
 
   |―
(源次郎長男)源之助
―梶木元次郎 ―梶木博之 ―梶木雅夫(現当主)
|
 
|
(源次郎二男)治三郎=川辺郡安倉(現宝塚市)庄屋家の養子となる
|
(源次郎三男)熊=森琴石・大坂の森猪平の養子となる

川辺郡安倉には、門下「田川春荘」がいる。→関連資料:田川春荘画の「孔子像」と地域社会

梶木博之
「有馬温泉史料 上下巻」
(風早恂、有馬温泉刊行委員会編著・発行者中村安考・名著出版・昭和63年)での、有馬温泉史料刊行委員会委員長。下巻の末尾に、梶木博之氏の「跋文」が寄せられており、文章中、風早恂氏と共に、同著に精魂を傾けた人物に「森 博」の名が記されている。森家に残る文政年間からの控え録には、「奥の坊」の氏名が複数ある事から、森 博氏は森家とは何らかの繋がりがあるものと思われる。
下巻の古文書類では、<年寄源次郎>・<本陣奥坊半六>・<年寄仙太郎>などの名が頻繁に出る。
梶木家では神戸市近郊の旧家との婚姻、養子縁組が多く見られ、梶木家からは政府の要職についた人物を排出した。

 梶木源次郎(梶木源治郎)の業績

役職、家業
攝津國有馬郡湯山村庄屋職~湯山町戸長、有馬温泉十二坊の内「中の坊」を継承開業
業績
住吉新道,神戸新道の改修・地租改正・学校地の充当・太鼓橋の架け替え・湯泉神社社格等の請得・炭酸水の発見(明治6年)・道標建立★・有馬温泉の物産振興に努めるなど。
出版書誌
「有馬温泉温冷両泉分析表 全」(響泉堂刻・明治10年代初期)
「有馬温泉炭酸水改良建築并市街写真絵図」(響泉堂刻・明治16年など)=トップ頁に図があります。
「中の坊」及び「梶木家」記載書誌(森琴石調査で取得した資料のみ)
1:「兵庫県下有馬武庫菟原 豪商名所獨案内の魁」
(貫垣興佑編輯兼出版・熊谷久栄堂売捌・明治17年)=神戸市立博物館蔵
2:「有馬温泉誌」(田中芳男著・明治24年)
3:「校訂有馬温泉誌 全」(田中芳男著・明治27年)
4:「学海画夢 上下」(依田学海著・湯上市兵衛出版・明治18年5月)下巻「有馬泉浴」
5:「学海日録 全11巻+別巻」(依田学海著・岩波書店刊・1992年7月)の内、《第6巻明治18年5月4日、9日》=但し5月4日での森琴石兄<源之助>の名が、<深二郎>との誤記がある

武庫菟原=地名:読み方は (武庫 むこ 、菟原 うばら


★梶木源次郎(梶木源治郎)が建てた”道標”


A :炭酸泉源の道標 (神戸市北区有馬町、炭酸泉源公園入り口・明治10年6月建立)

炭酸泉源公園入り口 ・・・・・道標は、写真右下、あじさいの中に埋もれている)

炭酸泉源公園入り口

正面

炭酸水  てっぽう水ともいう

すみよし
とりぢこく
津ヽみがたき
(住吉 鳥地獄 鼓ヶ滝 の事)
炭酸水
 
すみよし とりぢこく 津ヽみがたき
ひび割れは、炭酸水を運んだ馬車が石標にぶつかったため生じたもの※

左 (撮影不可能)

明治十丁丑年六月 梶木建設

     


明治8年、森琴石の実父「梶木源次郎」により、毒水と言われていた湧き水が、”良質な炭酸水”という事が分かった。その後明治34年、この炭酸泉源に隣接した「有馬鉱泉合資会社」という、炭酸水(ミネラルウォーター)の工場が建てられた。炭酸水の運搬手段は荷馬車だった。

メモ:その後、大正4年4月16日には、三田~有馬温泉湯元まで12キロの<有馬鉄道>が開設された。当初は民間鉄道として計画されたが、完成と同時に鉄道院が借り受け、4年後買収され、国鉄が有馬線として運行した。戦時下の昭和18年に廃線となり、(篠山連隊の)軍事物資を輸送する為、国鉄篠山線に転用され、車輌から線路や敷石、橋げたに至るまで、有馬線の資材が活用されたという。
<有馬鉄道>とは別に、昭和3年11月、神戸湊川~有馬温泉入り口までを結ぶ、神戸有馬電気鉄道(現在の神戸電鉄)が開通、同12月には、有馬~三田間が開通した。
◆調査ご協力者=妻木敏彦氏(神戸市北区役所北神出張所有馬連絡所 所長)



B:住吉道の道標 (神戸市北区有馬町・六甲越えへの登り口・明治10年6月建立・未撮影)

右 左ハすみよし西宮 (左は住吉西宮)}
左 明治十丁丑年六月 梶木建設
背 ハつつみかたき (背は鼓ヶ滝)

台石正面:世話方4名の名
台石右側:戸長 梶木源次郎 など5名の名

◆参考文献=「見て聞いて歩く有馬」(鷹取嘉久著発行/平成8年)・「神戸の道標」(山下道雄、沢田幸男、永瀬巌共著/のじぎく文庫編集/松井高男発行/昭和60年9月)


 梶木源次郎の書簡

梶木源次郎~(福知山)秀蔵宛

梶木源次郎~(福知山)秀蔵宛

御使札、忝なく拝見仕り候。仰せの如く
秋冷の節、御座候処、弥(いよいよ)
御家内様、御壮栄 遊ばさる可く
御座珍重御儀、賀し上げ奉り候
然者(しかれば)、御親父様不快
之趣き、御知らせ成し下され、
驚き入り奉り候。早速、罷り出、御見舞
申し上ぐべき筈ニ御座候へとも
少々、拠(よんどころ) 無き、用事ニ差掛り罷り在り、
罷り出て得、申さず候間、御一統様え
此段、宜敷く御断り御申し上げ下さる可く候。
手抜り之儀とは申す間敷く
存じ候へとも、義理の御親父
成る丈け、御大事ニ成さる可く候。奧坊
仙太郎殿、住吉御社務様
方え、昨日、御越の由に承り申し候。
何れ御宅へ御寄りの噂に
承り候へとも、喜助殿にても、
甥迄、呼びに御遣し下され候。従而(したがって)
麁抹(そまつ) 乍ら、此の扣(ひかえ)、聊(いささか)御見舞の
験(しるし)迄に進上し仕り候。呉々も
大切に御介抱、専(もっぱら)存じ奉り可く候。
先は右御貴答、御見舞迄、
如斯(かくのごとくに)御座候。恐惶謹言

   八月九日夜 御小野以 源次良
福地山秀蔵殿  貴下

翻刻者=槇村洋介氏(飯田市美術博物館)


~注釈~
奥坊 仙太郎=浅野仙太郎
★江戸後期の森家控え帳には、「奥の坊 仙太郎」・「奥の坊 半六」の名が存在する。現在の「奥の坊」継承者は「先山氏」。
★「有馬温泉記」(榎本義路著・浅野半六出版・明治18年)・「改正増補 有馬 温泉記」(榎本義路著・湯山町浅野仙太郎出版・明治23年)
福知山・小野(現兵庫県小野市)など=播州・播磨地区には右の地名以外に、森家や梶木家の身内や知己が少なからず存在したという。

 顕彰石碑



梶木源治郎 顕彰石碑建立記念写真 (明治40年9月)

最後列石碑左:梶木元次郎

梶木源治郎 顕彰石碑建立記念写真 (明治40年9月)前列右端:「兵衛」主人

前列左から3番目が、森琴石長兄「梶木源之助」と思われる


梶木源治郎顕彰石碑
(上記記念写真にあるもの・炭酸泉源広場内

石碑画像ご提供=槇村洋介氏(飯田市美術博物館)

原文
炭酸泉記
攝津國有馬郡湯山町杉谷有湧泉含炭酸瓦斯以故治胃弱
留飲疝癪風毒渇気鬱証及婦人諸病最有奇驗是係故梶
木源治郎翁所發見云翁夙轉庄屋為戸長専志開物適赴住
吉途上邂逅平野留吉留吉横濱人頻汲溪水學試之翁訝訊
之日有温泉處必有藥水翁翻然頓悟発見此泉元稱毒
水人不敢近翁盛之壜請縣廳經内務省司藥場検定遂開此
炭酸泉實明治六年也翁嘗改修住吉新道神戸新道求癈
址充學校地域盡力地租改正改架太古橋請得湯泉神社
社格等利用厚生事實不遑枚擧也郷人徳其徳為建石泉
    側要予文於是乎記銘日

   (漢詩省略)
明治四十年九月
從三位勲一等 田中芳男男爵并篆額
從七位 織田完之書  東京酒井亀泉

読み下し文
炭酸泉記
攝津國有馬郡湯山町杉谷に湧泉有り。炭酸瓦斯を含む。
故を以て胃弱、留飲、疝癪、風毒、渇気、鬱証及婦人諸病を治すに最も奇驗有り。
是に係るは故梶木源治郎翁の發見する所と云ふ。
翁は夙に庄屋を轉じ戸長と為り、専ら開物を志す。
適(たまたま)住吉に赴かんとす途上、平野留吉に邂逅す。
留吉は横濱人にして頻に溪水を汲み試して之を学ぶ。翁訝(いぶか)り之を訊ぬ。
日く、温泉有る處、必ず藥水有りと。翁翻然と頓(にわか)に悟り、此の泉を発見す。
此の泉、元は毒水と稱し、人敢て近かずかず。
翁之を盛にし、壜(ピン)を縣廳に請い、内務省司藥場検定を經て、遂に此の炭酸泉を開く。實に明治六年なり。
翁嘗て住吉新道、神戸新道を改修す。
或(あるとき)は未癈址は學校地に充て、或は地域の地租改正に盡力す。
或は太古橋を改架す。或は湯泉神社社格等を請得す。
厚生に利用する事實、枚擧に遑(いとま)なきなり。
郷人其の徳を徳とし、泉側に建石す。予の文を要すは是においてか。銘に記して曰く。

   (漢詩は省略)
明治四十年九月
從三位勲一等 田中芳男男爵并篆額
從七位 織田完之書  東京酒井亀泉刻

読み下し文=大原俊二氏(米子市史編纂事務総括・米子市図書館協議会長)

~注釈~
開場=開発
●田中芳男 (たなか よしお)
★長野県飯田市出身の男爵。日本の博物館の父とも言われる。
明治政府の高官として 日本内外での博覧会を提唱、また動物園を日本へ始めて導入した事でも知れる。
「有馬温泉略記」(明治17年)、「有馬温泉誌」(明治24年)、「校訂有馬温泉誌 全」(明治27年) などの著書がある。
★田中芳男=「雅友・知友:田中芳男」・「平成16年2月 注1・注3」・「平成19年1月【1】
★弟の田中義廉は、「記事論説文例」(安田敬斎著・田中義廉閲・響泉堂刻・前川善兵衛刊・明治12年)で、森琴石との関わりが見られる。
●織田完之 (おだ かんし)
勤王家・農業史家。三河生。織田良右衛門の五男。通称亮平、号は鷹洲、寅賓。早川文啓・松本奎堂に師事する。国事に尽力し勤王の志士と往来した。維新後は監察局頭取・大蔵省・内務省等に務めた。また佐藤信淵研究の先覚者であり蔵書家でもある。農業に関する著書が多い。大正12年(1923)歿、82才。
★織田完之著「小学農家経済法 」(織田完之著,山田浅次郎, 明19.3)の出版人「山田浅次郎(山田浅治郎)」は、森琴石編著「題画詩集」の出版人の一人。 →「平成18年9月【2】題画詩集」
★石碑建立の明治40年には「平将門故蹟考」(織田完之著・東京碑文協会刊,明40.6)を刊行している。
※松本奎堂=「平成15年11月 注4●2番目」・「平成16年8月 注2 岡千仞」・「平成17年11月【3】■3番目」などに記述があります。  
●酒井亀泉 (さかい きせん)=酒井八右衛門
「井亀泉 せいきせん」 として知られる、東京を代表する名門石工。
 森琴石の長兄「梶木源之助」・・・(梶木源次郎の長男)

1:東京向島の秋葉神社境内で千坪の規模の有馬温泉を経営していた
『新撰 東京名所図會 第十四編』 に記述
臨時増刊 風俗畫報 第167號
墨田堤 下
明治卅一年六月廾六日  東京東陽堂発行
書誌画像ご提供=熊田司氏(和歌山県立近代美術館)
表紙 第9頁 第8頁
●有馬温泉
有馬温泉は請地町に在り、明治十七年十一月、向島秋葉神社の
境内千有余坪の地を開き、摂州有馬の湯花を遷し、温泉宿を營み
手軽お料理も為す、中の坊梶木源次郎同店なりといふ。
抑(そもそも)摂州有馬温泉は、往古人皇三十五代の帝(みかど)、舒明天皇三年秋九月
初めて行幸あらせられ、また三十七代の帝、孝徳天皇大大化三年
冬行幸ましましにし後(のち)、天正十七年豊太閤御入洛ありしより、
爾来ますます繁盛し、實に全國に冠たる温泉なること普く人の知る所なり。
効能
一,諸の出瘡(でくさ)  一,志つ毒一切   一,ひへ志やう
一,子宮病  一,ちのみち  一,中風症
一,はれ病  一,神経病   一,うちみくじき
一,こしの痛み  一,気のふさくしやう   一,肺病
一,りうゐん  一,胃病並に胃よりおこる諸症
一,血のすけなき症  一,りんびやう   一,痔疾
一,かんがさ
創業の際守田寳丹大に尽力する所ありといふ。  上野池之端仲町の薬舗「守田寶丹」の経営者、守田治兵衛の事。
客間 茅葺二階建一棟何の風情も無けれど、遠く墨堤の桜を望み、小田の蛙に耳を澄まし、秋は
稲葉の風に戦ぐも、態変りてをかし。裁籠繁茂く枝を交わし、瓦葺の三階造は小丘を抱きて立てる
をもて背面より登れば直ちに二階に達すべく、正面より登れは初階より通るを得へし、其さま恰も
浅草奥山鳳凰閣の如く、南に二階家の離れて建てられたるは旅館なり、梅林鬱として藤樹蔭を
成し、松籟微かに眠を催して、三伏涼を納るゝに適す。泉水 池あり水青く、中島に茶室あり。
渚さに捨て小舟、それすら風雅なるに、蓮の浮葉に鯉の跳ねて、客あり、釣竿を望む時は 随意に
貸与して、釣る所の魚を調理す、鮮鱗溌溂膳に上るも快、
混堂 池畔に在り、湯漕は好心地(ここち)よく洗われて、男室女室に區割たる。
料理 普通一式の料理、花中又弁当を調達す。
美人なし 別嬪は他よりお連れ下されとは情けなくも、前歯のほっくり缺損た(かけた)婆様が愛嬌。
梅干 梅林數十株、毎歳梅干と為す、有馬産の梅干は名代なり。
焼物及有馬籠の類、有馬の名産焼物及竹細工類を鬻く(ひさく)、        商いをする、売る
其他有馬筆もあるべし。
電話 浪花千四百六十三番及同千百十二番
石碑 入口老椎(しい)の根際に一基の碑文あり、以前秋葉の境内なりしが、
其頃より建てられたるものなりとおへり。
四運之詠        紫臺樓律松
糸遊のいとゝたうとく筑波山
樗(おうち)まて雲のかゝりし山路かな
飛や飛やと蔭おく木々や池の上
名を聞いて見れはやっぱり帰り花
碑蔭
辞世
花を見し居所替ん月の秋
天保三壬辰大祥忌建之憲齋書             憲斎=江戸後期の書家「中川憲斎」
春は垣根の残雪未だ全く消えやらぬ間に、南枝蕾を破って暗香浮動、梅見にと筇を曳く雅客、
つつ”いて向島櫻狩の崩れ客、庭の藤の花池の面にゆかりの色を暎せば、五月ともなりて
實梅の影夏座敷に落ちて、水無月文月三伏ともなれば、夏を余所なる納涼がてらの客、美姫を
携へ酒肴満盞、緑蔭華胥に遊ぶもよからむ。
2:東 雅夫著『江戸東京 怪談文学散歩』 より
(角川学芸出版発行/平成20年8月=角川選書428)
●明治41年7月11日夜
向島の有馬温泉で「化物会」開催
☆参会者=泉鏡花・長谷川時雨・柳川春葉・神林周道・水野葉舟・小山内董・岡田八千代・鏑木清方・鮪崎英朋・沼田一夫・北村四海・岡崎雪声・岩村透・鈴木鼓村・六せ尾上梅幸・初代市川団子 ら22名
●明治42年10月
柏舎楼版『怪談会』が出版され、「化物会」は怪談史上に名を留める
明治末期の怪談ブームの熱気をなまなましく今に伝える
著名人の直話を蒐めた百物語形式による怪談ドキュメンタリーの嚆矢となる
●東 雅夫編 『文豪怪談傑作選 特別編 鏡花百物語集』
著者泉鏡花ほか/東 雅夫編/筑摩書房/2009,7,10)
目次4番目・・・・向島の怪談祭 に記述,あり
●東 雅夫編 『文豪怪談傑作選 特別編 百物語怪談会』
著者泉鏡花ほか/東 雅夫編/筑摩書房/2009,7,10)
『怪談会』(柏舎楼/明治41年10月刊)が復刻版として出版されています
■閉鎖時期不明
☆その後 近くの銭湯が「有馬温泉」の名を留める ⇒銭湯廃業 ⇒跡地に「向島有馬温泉縁起」のプレート設置
☆銭湯「有馬温泉」はこの10数年ほどの間に廃業し、マンションとして建て替えられたが、マンションの入口横に銅版らしいプレートが設置され「有馬温泉縁起」と題する説明文が刻まれ、風俗画報に掲載された山本容谷の「向島有馬温泉」の絵も刻まれているそうです。
★以上、『江戸東京 怪談文学散歩』の、「第三章 泉鏡花ほか『怪談会』と向島有馬温泉(墨田区)」より、51頁~68頁のところを部分的に引用させて頂きました。
★東 雅夫著『江戸東京 怪談文学散歩』の第65頁下方に『新撰 東京名所図会』に描かれた、山本松谷画<向島有馬温泉>の細密な図が挿入されています。
★what's New お知らせ&補足「森琴石の実兄、東京向島に有馬温泉を設置していた」をご覧下さい。


■森家

 森家について



聞き書き

森家先代の話によれば、森家は美濃尾張方面の、[森 姓] を持つ者の末裔という。
この一族は、各地に拡がっていたようだ。姻戚・外戚関係や養子縁組を含めると、縁者は広範囲、相当数にのぼる。森琴石を含め、森家の婚姻関係は、森家縁者の意向が強く働き、それら縁者から選ぶ事が多かったという。(明治期半ばくらい迄と思われる)
森琴石が諸国を漫遊する足がかり、また、足跡を多く残す地域は、それら縁者の存在も大きいと考えられる。

下記に記録が残るものについて少しご紹介する。

土岐姓 三人
右「罷越(まかり越す) 加藤幸助」
土岐姓 三人
右「罷越(まかり越す) 加藤幸助」 

(明治9年4月10日、森琴石妻「ゑい」葬儀時のもの・森家ゆかりの者と思われる)




 森定七・森善蔵・森猪平



●森定七=森琴石養子先、三代前の当主
●定七から森琴石に至るまで、三代養子が森家を継いだ

森定七⇒森善蔵(麻田村)⇒森猪平(出石=いずし)⇒森琴石(有馬)

●森家の家紋=丸に梅鉢

家紋



森 定七

生歿年:明和3年~天保6年10月20日 (1766~1835)・行年70
家号:出石屋定七
家族:妻いし/男二子は若年死のため、摂津国豊島郡麻田村森善蔵(次男)が養子に入る

娘(木部村忠右衛門に嫁ぐ)

現大阪府豊中市

森 善蔵の弟=森勘兵衛(麻田村)

 
↑↓近親者
 
森 鍬蔵(京都扇屋町)

 

麻田村、木部村=麻田藩、青木家の領地 

麻田藩の領地=摂津国 兎原郡、川辺郡高平(後の有馬郡・現三田市)、備中後月郡・小田郡・浅口郡・ 備前笠岡、伊予周敷(現東予市)などがある。
有馬郡・川辺郡=琴石身内や周辺の者あり・備中や伊予には森琴石の門弟が多く、森琴石及び周辺の足跡が非常に多い。 

~森琴石控帖(明治8,9年頃)~より

森琴石控帖

備中後月郡(しつきぐん)井原村 「仁科善七君」とあり  → 関連資料「井原後月人物誌」に名前あり
仁科善七君=仁科家の一族か?(井原の代官は仁科氏)

メモ
*明治時代の資料からは、木部村・麻田村の文字は見当たらない
*妻「いし」の詳細な「法要録」 が現存、目下調査中
*森家の過去帖(定七の父まで)では、播磨にも身内あり
参考資料
「諸藩大事典」(雄山閣・平成元年)=豊中市市史編さん係      
「三田市史 下巻」(三田市史編纂委員会・昭和40年)
その他



 

書簡

伊織 ⇒ 出石屋定七

江戸行きの借金申し込み文

江戸行きの借金申し込み文

伊織は身内と思われる

出石屋定様 披■伊織
出石屋定七様 披■伊織 当用事

封筒

    当用事

愈御康安被遊御座奉珍賀候。
此間ハ罷出得拝顔候、且又
拝借仕大慶之至奉存候。
御影ニ而先江戸下しも仕
誠ニ難有仕合ニ奉存候。
夫ニ付三両丈十六七日頃迄之
所一寸借仕、先間ニ合置候
得共、是ニ当惑仕候故、甚
申上兼候へとも当年之事
大方ニ而とても外ニ而ハ出奉
不申、何卒三両之所恩
借被下候ハバ、重々大慶仕候。仍
御聞分被下右手都合能参
候様御すくひ被下候様、幾重
ニも御頼申上度御聞入被下候
様奉願上候。先ハ右之段
御頼申上度、且其節書
付差上申上度如此御座候。
以上
十一日

翻刻者=槇村洋介氏(飯田市美術博物館)



読み下し文

愈いよ御康安 御座遊され珍賀に奉り候。
此間ハ罷(まかり)出、拝顔を得候、且(かつ)又
拝借仕り大慶の至りに存じ奉り候。
御影ニて先(まず)江戸下しも仕り
誠ニ誠ニ有難き仕合ニ存じ奉り候。
夫ニ付、三両だけ十六七日頃迄の
所、一寸借り仕り、先ず間ニ合せ置き候
得共、是ニ当惑仕り候故(ゆえ)、甚(はなはだ)
申上げ兼ね候へども当年の事
大方ニてとても外ニてハ出し奉り
申さず、何卒三両の所恩
借、下され候ハバ、重々大慶に仕り候。仍(よって)
御聞分け下され、右手都合能く参り
候様、御すくひ下され候様、幾重
ニも御頼み申上げたく御聞き入れ下され候
様、願い上げ奉り候。先ずハ右の段
御頼み申し上げたく、且、その節、書き
付け差し上げ申し上げたく如此(かくのごとく)に御座候。
以上
十一日

読み下し文=大原俊二氏(米子市史編纂事務総括・米子市図書館協議委 員・米子藤樹会理事)



森 善蔵 ・・・・・調査中


森 猪平(2代目  森 善蔵)・・・・・調査中

当ホームページ内 「森 猪平」 記述ヶ所
平成16年2月」・「平成18年5月【4】注3◆2番目●2つ目」・「平成19年7月【2】・「平成19年10月【1】 注1●森琴石居宅について

森 琴石 ・・・・・・省略します


森 雄次 (雄二、雄治の場合もあり)

当ホームページ内 「森 雄次」 記述ヶ所
平成11年6月」・「平成17年7月■3番目注5」・「平成18年5月【4】」・「平成18年6月【2】◆2つ目」・「平成19年9月【1】注3 森家 庭園写真内 」・「平成20年7月


森琴石とは略歴写真・文献抜粋(南画編<明治時代><大正時代><昭和時代>・銅版画編)|
家族・係累(生家と森家・森琴石の家族・係累人物

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