森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 関連資料

森琴石周辺の人物や事柄・資料などを紹介する項目です


資料紹介(日誌書簡詩、賛)|関連資料(一覧

あ項

尼の毛受さん(あまのめんじゅさん)

『まんだ』五九号(大東市、地域文化誌)より

橋本 貢 文(大東市文化財保護委員)

●当HPでの関連項目=最新情報「平成15年7月■2番目
●「毛受小八郎」とは、森琴石門弟「氈受楽斉 めんじゅ らくさい」のこと
●「毛受」の「毛」は、「氈」の文字の右側の「毛」を使用する事も多い


◆大東市三個の尼崎新田・同新々田に、合計三十六町歩の土地を所有していた毛受家の祖先にあたる人の墓が、滋賀県余呉町にあることを、元まんだ編集部員であった故、今村安和氏からお聞きしていた。しかし、遠方でもあり、その時は聞き流していたが、NHK大河ドラマ「秀吉」を見るにつけ、柴田家の重臣、毛受兄弟の墓を詣でてみたくなり、大東市文化財保護推進委員の先生方に一日研修会を企画して頂いた。

◆毛受家の出生地は尾州毛受村で、兄を茂右衛門、弟を庄助といい、共に柴田勝家に仕えた忠孝の士であった。中でも弟庄助は十七歳のとき、長嶋の戦い天正二年(一五七四)で、柴田勝家が馬印の金の御幣を一向宗にうばわれたのを、取り返した。その恩賞により、小姓頭となり一万石の大名となった。領地は現在の武生市あたりで、柴田勝家は毛受勝助家照と名前を与えた。その後、羽柴秀吉と柴田勝家との柳ケ瀬の合戦(天正十一年四月二十日)の時、勝家軍には脱走兵が多くなり、留まる兵三千人にすぎない有様であった。それでも勝家は秀吉と決戦を行なおうとしたが、近臣らはこれを諌め止めて、越前に帰国し再起をはかろうと主張した。中でも毛受家照は勝家の身代わりとなり討ち死にすることを願った。勝家は背進する時に、まず羽柴軍に一撃を加え、いちどは羽柴軍を退けてから馬印を毛受兄弟に授け、百余人の近臣を連れて柳ケ施の戦場を脱出、北国街道を越前北庄へ向って疾走したのである。

◆毛受兄弟は狐塚に出陣していたが約一キロメートル退き、林谷山の原彦次郎のいた砦に入った。(狐塚は防御に不利な場所だったのでここに移動した。)堀秀政の兵はこれを勝家と誤認し、逃げるのを追って林谷山の砦に迫った。毛受兄弟の兵は約三百人と少なかったが、勝家より授かった金の御幣の馬印を中心に活躍し大いに防戦につとめた。最後は十七人になり、弟の家照も秀吉方に胸を射抜かれ力つき壮烈な討ち死にをとげた。時 天正十一年(一五八三)四月二十一日午後二時であった。場所 滋賀県余呉町新堂(余市バス停左)

毛受勝助家照
辞世の詠
 
 
 君がため
屍を野にさらすとも
    何日か来て鳴け山ほととぎす

◆その後秀吉はこの戦闘での兄弟の武勲を賞し、遺体を丁重に葬り遺族を捜して厚く保護したという。なお村人はこの地を聖地として守り続け、明治九年には滋賀県令 籠手田安定氏は此所を訪れ、兄弟の遺徳を偲び墓碑を建立したのが現在の墓碑である。

◆もともと尼崎新田は深野池の池床を元禄十五年(一七○二)に、同新々田は不要になった堤を宝永四年(一七○四)に、豪商尼ケ崎又衛門が開発したものを、幕末に大阪天満相生西街で両替商を営む大和屋毛受氏が買い受けた。大正のころ、ゆえあって全財産を押収されたが、壮大な屋敷や建物は日支事変頃まで残っていた。また毛受小兵衛「寿蔵碑」が三個二丁目六の毛受家個人墓地内の東南に建っていた。墓地面積は約二百坪程であった。昭和五十五年、住宅建設時に何処かへ捨てられたのか、いまだに不明である。只一つ地蔵尊のみが当墓地内西南の角に建っている。その外はみんな住宅となってしまった。

寿蔵碑

河内国住道村毛受小兵衛翁、進徳修業ス。嫡子小八郎父母ニ事ヘテ孝ナリ。乃チ寿蔵碑ヲ其郷ニ立テ、以テ其行事ヲ記ス。翁ノ名ハ至ル、字ハ富久、鑛山ト号ス。天保十四年二月十二日、大阪天満相生西街ニ生ル。父ハ森宗達トイフ。翁、甫メ四歳デ親戚ノ故ヲ以テ、毛受庄造ノ其姓ヲ養育スル所ト為ル。香川一郎、篠崎小竹ノ諸翁ニ学ブ、毛受ノ祖ハ、尾州毛受村ニ生ズル也。武官為リテ、八代浄勝ニ至ル。官ヲ辞シ帰農シ大和ニ住ス。後、大阪ニ転ジ両替商ヲ営ム。昭造歿スルニ及ビ、翁ハ其業ヲ継グカタワラ町年寄ヲ勤メルコトハ殆ド十年。河内国秦村ノ西嶋氏女登起子ヲ娶リ五男一女有リ、小八郎ナホニ子ヲ重ネル也。前後皆夭シ、初メテ翁養父ノ後を襲グナリ。故アッテ大イニ資産ヲ失ヒ、遺感アタワズ。楷ニ復旧ノ念急ナルモ乃チ止ム。事蹟ノ湮滅スルヲ恐レ、マサニ勤メテ以テ後々ニ伝エントス。アアコノ父ニシテコノ子有リ。進徳修業ノ道虚シカラズトイフベキナリ。余、小八郎ニ代リテ乃チ筆ヲ授ク。
 明治壬寅(三十五年)秋日  雲来仙史石橋教 ※  (原漢文)


参考資料:大東市文化財ガイドブック・日本の合戦(新人物往来社)

雲来仙史 石橋教=石橋雲来 

「石橋雲来」(いしばし うんらい)
名は教、増官とも云う。弘化3年(1846)4月生。兵庫県揖保郡竜野町、竜野藩石橋定 右衛門の次男。
大阪市北区曽根崎中1丁目に住み、晩年は明石市の江井ヶ島に住んだ。
漢詩 塾『雲来社』を主催。
明治15年から40年までの、諸国漫遊・交流をしたためた「雲来詩鈔 十四集」。
交流した多くの詩人の漢詩集「雲来吟交詩 三冊(183家・100編)」。
「友蘭詩 二十集(575家)」他、多数の詩集を編さんした。
大正3年7月歿。


◆下記は「寿蔵碑」拓本を記録した資料

毛受小八郎寿蔵碑 毛受氏については、ここにあげた碑文以外に古文書等の記録はなく詳しい事は分からない。

しかし大正十年頃まで、尼ケ崎新田三十六町歩の大地主であった。

もともと尼ケ崎新田は深野池を元禄十五年(1702)に、同新々田はその結果 不要になった堤を宝永四年(1707)に、豪商尼ケ崎又右衛門が開発したものである。

尼ケ崎は今も知名として同地に残る。それを幕末に大阪天満で両替商「大和屋」を営む毛受氏が買い受けた。

古老の語る所によると、毛受氏の屋敷は五反六畝(約五千五百平方米)もある壮大なものであった。

建物は戦争直後まで残っていた。そして節句等には近所の子どもを集め、にぎやかであった。

また、寝屋川の会所橋も毛受氏が、自分の子どもが小学校(現住道北小)に通 うのに便利なように架けたものだと、今でも伝える。

しかし、大正に入ると三十六町の土地と屋敷は、出入りの業者の保証人印を押したことが原因となり、押収されてしまったと伝え聞く。


◆「大東市文化財ガイドブック 第一集石の文化財」
(大東市教育委員会社会教育課編集・大東市教育委員会発行・大東市文化財保護推進会協力・昭和56年3月)

◆資料ご提供者=橋本 實氏(大東市文化財保護委員)

い項

一致帖(いっち ちょう)

「一致帖」
飯井万助(いい まんすけ)出版・明治25年5月出版・一帖・出版地大阪
●近代デジタルライブラリー(国立国会図書館明治期刊行図書閲覧データベース)で画像閲覧可

目次

1. 題字   久爾宮朝彦親王殿下
2. 序文   南岳藤澤恒先生
3. 松日出富士 呉春先生筆 中川蘆月先生模写
4.   有栖川幟仁親王殿下
5. 進修之益得之博交 従一位近衛忠熙公
6. 福田半香先生
7. 風月双清 伏見宮文秀女王殿下
8. 雪消山色静 中島歌子女史
9. 竹石 梁川紅蘭女史
10. 嘉福成基 從一位正親町実徳公
11. 御歌所長高崎正風大人
12. 松・端之図 貫名菘翁先生
13. 有森然 東京控訴院評定馬屋原彰君(松竹生)
14. 皇太后太夫杉孫七郎君(聴雨居士)
15. 精覈 従一位嵯峨実愛公
16. 一致倶楽部 有賀長酔大人
17. 富貴長命 沙門鉄翁先生
18. 授物於我 大勲位久爾宮晃親王殿下
19. 陸軍中将鳥尾小弥太君(得庵居士)
20. 山水 藤本鉄石先生
21. 迎皇后陛下行啓 農商務次官西村捨三君
22. 補天余材 尾崎雪濤先生・森琴石先生・長阪雲在先生・
服部紫江先生・清人章寿彜先生(合作)
23.   梅崖ー山本憲先生

井原後月人物誌(いばらしつき じんぶつし)

「井原後月人物誌」 (いばらしつきじんぶつし) より

●当HPでの関連事項=最新情報「平成16年7月
●当HPで記載される関連人物=仁科善七=「平成16年7月 注1、メモC
               堀井玩仙=「平成14年2月」・「平成16年6月 注2●2番目
●資料ご提供=井原市史編纂室


「笠原彌代吉」 (天保10年~明治45年2月10日没 )

文:大塚益郎(昭和57年)

弥代吉は神代町に生まれ、田二〇町歩を持つ資産家であった。
明治初年、十余年を費して、神代橘という蜜柑の新種を育てて、神代の各戸に配賦した。
今、弥代吉の孫、道和方には、富岡鉄斎筆の額がかかっている。曰く『橘の種類頗る多し。就中、神代村、笠原主人作る所の神代橘は当代第一である。或る日、余一見してその奇異に驚く。大容手の如く、色は黄金に似たり。液、滴るが如く、味酸にして美なるこというべからず。実に仙果なり。』と。

これは弥代吉が仁科善七という骨董商に託して、鉄斎の居を訪れて贈った謝意の揮毫である。この善七については、明治初年、東京の阪谷朗廬から西江原の坂田警軒宛の書状を筆者が所持しているが。これに『十二月三日書状相届候。先月末、井原善七来り商用に候。例の書画集め勉強の奇人なり。大阪の玩仙と申す老人同道来る。又奇人なり。しかし両人長く宿り込みには、ちと閉口致候』とある。

弥代吉は明治三十年頃には神代橘を四町歩にわたって植栽した。
また、神代は山間の小村で、未国池、金切池の二つがあるが、水量が少なかった。ここに計画をたてて、大   谷から末国まで、長さ五七間、堰高一丈八尺。末国から金切池まで、延長二七〇間、堰高八尺の通水路を築き、 更に池を広くしたので貯水量が倍増した。この工事は明治19年6月に起工し、三四年三月完成したが、十六年と二千余円を要した。弥代吉は、工事長として先頭に立って、之に当たり、金切池の樋は、木を改めて石材で堅牢にして、その費用は私費を当てた。

明治二五年には、頂見文殊院恵観僧正が、本堂、客殿、庫裏を改築すると、木材も弥代吉所有の山から良木を伐り出し、屋根瓦は矢掛で焼いて、弥代吉宅を中継として、頂見迄運ぶ等、当時一四〇戸の檀家の建てた寺院としては、荘厳華麗な建物を完成した。本堂はその後、宝蔵院に移築された。
文殊院本尊の宮殿式厨子は、弥代吉三回忌に長子謙三が一六歳の時、寄進したものである。

明治四十年、内寺にあった江原小学校が敷地が狭くなって、移転の必要が迫ると、敷地五反歩の購入費、二千円を寄付して、宮田、井の尻の地に移転改築に至り、村では頌徳碑を建ててその徳を讃えた。
彼は神仏信仰の心が篤く、讃岐金比羅宮、備中吉備津神社等へも多くの寄付を献じている。



お項

大阪の書林(おおさかのしょりん)

●森琴石は、明治8年頃から22,3年頃まで、自身の著書類の出版や、銅版画師【響泉堂 森琴石】として多数の書物師と関わっていた。この分野については調査中である。



(一)『浪華の魁』より


編輯:
垣貫一右衛門(北区曽根崎新地1丁目39番地)
出版: 垣貫與祐(北区曽根崎新地1丁目39番地同居)
発行: 明治15年1月19日
書林商 吉岡平助 心斎橋筋備後町角 ⇒平成18年11月【1】平成16年1月■2◆1
書林商 中川勘助 心斎橋筋博労町南へ入 ⇒平成19年3月【1】注1(地図関係が多い)
書林商 森本太助 心斎橋筋唐物町南へ入 ⇒平成18年8月【2】注1
書林商 柳原喜兵衛 心斎橋筋北久太郎町北へ入 ⇒下記(ニ)の出版人 等
書林商 岡田茂兵衛 心斎橋筋博労町角 ⇒平成16年7月■1番目◆A 等
書林商 前川善兵衛 心斎橋筋南久宝寺町北へ入 ⇒平成19年1月【1】注10「記事論説文例」

★上記は、森琴石が一番多く関った大阪の書物師たちでもあるが、中でも吉岡平助との関わりが一番多い。



(二)『大阪名所独案内 下』 -末尾附録-より


著者:
伴源平
出版: 柳原喜兵衛,北村孝次郎,北村彦助
発行: 吉岡平助(明治15年3月)
銅刻: 響泉堂
◎大阪諸商家地位
10丁表 ○書林商(心斎橋筋多く其外市中諸所)    ・・・・・個別書林名記述無し


(三)『大阪営業案内 大阪商品仕入れ便覧』 -目次- より


宇田川文海編/ 長谷川金次郎発行 (明治31年)



書林 博聞堂 平田與吉 (以下 住所及び町筋は省略する)
書林 春篁堂 小野商店
書林 松村九兵衛  
書林 秋田屋 澤田幸助
書林 駸々堂  
書林 鍾美堂 中村芳松
書林 秋田屋 田中太右衛門
書林 誠心堂 矢嶋商店
書林 青柳堂 田中商店
書林 欽英堂 此村庄助
書林 明善堂 中川勘助
書林 崇山堂 青木恒三郎
書林 文(王+奐)堂 野村長兵衛
書林 前川善兵衛  
書林 三木佐助  
書林 熙春堂 田村九兵衛
書林 柳原喜兵衛  
書林 加賀善 吉田松根堂
書林 石塚猪男蔵  
書林 松雲堂 鹿田静七
書林 積善館本店  
書林 卸 寶文軒 吉岡平助
書林 同北店  
書林 矢部外治郎  
書林 積徳堂 中村商店
書林 松恵堂 小谷商店
書林 順天堂 西田商店
書林 井上市松  
書林 大華堂  
書林 任天堂 吉束商店
書林 梅原忠蔵  
書林 松文堂 平野藤七
書林 清玉堂 中井善吉
書林 石井鉤三郎  
書林 玉成堂 中川清次郎
書林 日進堂 中川商店
書林 正英堂 鳥井正之助
書林 偉業館 岡本仙助
書林 柳原喜兵衛  
書林 精章堂 羽間辰三
書林 弘文堂 柴田商店
書林 日下伊兵衛  
書林 福音社 矢部外次郎
書林 但馬屋 藤原熊太郎
書林 大岡万盛堂  
書林 庄司吉次郎  
文学宗教書林 金尾文淵堂  
漢籍古本商 橋本徳兵衛  
古本売買商 長谷川文々堂  
書籍及洋酒商売 勉強堂 木村定七
諸物品取次用達洋図書販売 赤志忠雅堂


(四)『大阪人士商工銘鑑』より


編集:
芝弥一郎
発行: 大阪人士商工銘鑑発行所(明治35年10月)


 ◎書籍(四區混載)・・・628~631頁
(商標は省略・一部原本と異なり現代漢字を使用しています)
名称 事業主 住所(電話番号省略)
   
内外書籍卸商  石井集成堂 石井鉤三郎 東區備後町四丁目八五
心斎橋筋東入
和洋出版販売  濱本明昇堂 濱本伊三郎 東區久寶寺町四丁目三二
心斎橋筋北へ入
陸軍兵書御用書肆  白仙堂 鶴澤久吉 東區内本町二丁目七五
骨董町筋東へ入
内外書肆  西田順天堂 西田順之助 東區北濱五丁目一一三
淀屋橋筋南へ入
講談小説発行元兼古本買入處  島の内同盟館 三宅英吉 南区南炭屋町橋東詰東入
木綿橋東詰東入
内外書肆  岡本偉業館 岡本仙助 東區北久太郎町四丁目一二八
書肆  金尾文淵堂書店
〈文学、宗教、書籍出版/文学雑誌「小天地」発兌/ 俳優雑誌「車百合」発兌/百版の新古書籍雑誌発売)
  東區南本町四丁目
心斎橋通角
和洋書籍商  河内屋書店 三宅荘蔵 東區南本町四丁目一五八
心斎橋筋西へ入
書肆 柏原圭文堂  柏原政治郎
(講談小説発行所)
柏原政治郎 南区北炭屋町一七〇
三池橋東詰南入
教育 商業書籍出版 吉岡書店    
内外新古及び書籍発行所  加賀善  吉田書店   東區安土町心斎橋北へ入
和洋書籍商  田中宋榮堂 秋田屋
田中太右衛門
一六習字本版元
南區安堂寺橋通四丁目心斎橋筋南
小学校教科書発売元書肆  田中青柳堂 田中常次郎 南區順慶町四丁目
心斎橋筋北へ入
書籍出版業 文盛館 武田福蔵 武田福蔵 東區久太郎町四丁目八十六番屋敷
大日本圖書株式會社 大阪支店
(本店 東京市京橋區銀座通一丁目)
  東區久太郎町四丁目
心斎橋筋東
内外書籍出版発売  中村鍾美堂 中村芳松 南區塩町通三丁目六九
三休橋筋西へ入
書籍商 三史堂  中村彌七 中村彌七 南區塩町通二丁目
中橋東へ入
内外新古書籍雑誌類販賣處 中村積徳堂   東區心斎橋筋
淡路町北へ入
内外書籍商  中川明善堂 中川勘助 東區博労町四丁目109
心斎橋筋南へ入
内外書籍商  柳原書店
(教科用書卸)
柳原喜兵衛 東區久太郎町四丁目三一
心斎橋筋角
内外書籍出版発賣書肆  矢島誠進堂 矢嶋喜平次 南區塩町通四丁目二一一
心斎橋筋北へ入
文海堂書房 松原九兵衛 松原九兵衛 南區心斎橋一丁目六七番屋敷
和洋書籍教育用機械楽器製造販賣  前川善兵衛 前川善兵衛 東區南久太郎町四丁目十九番屋敷
獨佛英米各國書籍及文房具各種直輸入
丸善株式會社大阪支社
主任
斎藤定四郎
大阪市東區心斎橋筋博労町
各國佛書観世流金剛流謡本  松本善助 松本善助 東區博労町四丁目一一五
内外新古書籍雑誌類販賣所 福井文徳堂   西區常安橋南詰南へ入
基督教聖書発賣元  福音社 矢部外ニ郎 西區新町通四丁目一〇六
西ニ橋筋東へ入
船舶海事書籍発賣元書肆 福芳堂 福井清司 西區南堀江通六丁目
鐵橋南詰南へ入
内外書肆  文煥堂 野村長兵衛 東區博労町四丁目二三
心斎橋筋北へ入
内外國書発行新古書籍販賣書肆  小谷書店   東區心斎橋通
備後町南へ入東側
各学校教科書各種雑誌販売書肆  小谷書店   東區淀橋通今橋南へ入東側
和洋書籍出版発売  此村欽英堂 此村庄助 南區順慶町通四丁目一七九
心斎橋筋北入
内外書肆  此村藜光堂 此村彦助 東區備後町四丁目七六
心斎橋筋南入
書肆崇山堂  青木恒三郎 青木恒三郎 東區博労町四丁目廾六、廾七番地
内外書肆  赤志忠雅堂 赤志忠七 東區本町四丁目三一
心斎橋筋北入
内外新古書籍商 澤田書店 澤田幸助 南區塩町通四丁目八八
心斎橋北詰北入
小学教科書及内外書籍 阪江文港堂 阪江市蔵 南區竹屋町一三六
八幡筋角
学校用書諸官衛用書籍文具商 阪江文港堂出張店   北區曽根崎学校南通り
於初天神西門筋北へ入
内外書籍商 北島商店 北島長吉 東區淡路町二丁目九四
中橋筋東へ入
図書出版販売及教育用諸楽器商 南開成館 三木佐助   東區心斎橋通北久太郎町角
書籍出版  駸々堂   東區心斎橋北詰八六番邸
海石氏習字本発行所書肆 繁本生成舎
 村田海石
繁本良之助 南區安堂寺橋通四丁目二三四
心斎橋筋西へ入
書肆 盛文館書店 岸本榮七 東區備後町四丁目
心斎橋南入
書籍発行所 積善館本店   東區安土町四丁目三八番邸
心斎橋筋北へ入
内外書籍 積文社 森本専助 東區南本町四丁目五〇
心斎橋筋西入
内外書籍出版書肆 精華堂 又間安治郎 南區安堂寺橋通四丁目
心斎橋筋西へ入
書肆 須田商店
内外図書和漢洋并新古発売並びニ雑誌等発売ス
  東區瓦町四丁目二八番屋敷
書籍商 中川清治郎   東區備後町四丁目三八
書籍商 石塚猪男蔵   東區安土町四丁目
書籍商 鹿田静七   東區安土町四丁目
書籍商 名倉亀輔   南區心斎橋筋一丁目五
書籍商 松本茂三郎   西區江戸堀北通二丁目一五八
雑誌書籍 吉田伊太郎   西區京町堀通二丁目一三九

大阪の有名諸大家(おおさかの ゆうめいしょたいか)

◆明治期に大阪で活躍した諸大家を、刊行書誌から刊行年月順にご紹介します
◆江戸末期、大正期については後年追加の予定です
青緑色文字は、森琴石や周辺資料に名が出る人物

(一)『浪華の魁(なにわのさきがけ)』


編輯人:垣貫一右衛門(北区曽根崎新地壱丁目三十九番地)
出版人:垣貫與祐(北区曽根崎新地一丁目三十九番地同居)
明治十五年一月十九日


★記載順序は 左⇒右

〇漢学詩文畫    

藤澤南岳:淡路町一丁目
小原竹香:北濱一丁目
藤井雲齋:堂嶌中一丁目
馬場謙蔵:中ノ嶌
天野章山:老松町二丁目
稲垣半仙:北濱三丁目
楠 覺證:天満河内町
市邨元貞:天満溝之側
佐野元恭:生玉門前
本城梅翁:博労町四丁目
山野邉鯤女:平野町

日柳三舟:北桃谷町
寺西易堂:土佐堀裏町
小西奠陽:伏見町三丁目
長 常陰 :備後町二丁目
近藤元粋:若松町
田村看山:鍛冶屋町
木村方齋:渡邉町
大谷真妙:天満
石橋雲来:高津
三瓶浩齋:伏見町五丁目

河野春(馬+風):備後町一丁目
村田海石:嶌ノ内
戸谷澹齋:今橋通
妻鹿友樵:新町通一丁目(森琴石師匠)
藤井此賢:阿波座下通二丁目
福原周峰:西横堀一丁目
高木退蔵:土佐堀裏町(森琴石師匠)
香川麗橋:伏見町二丁目
和田小耕:近江町
大石魯荘:西横堀

〇南画    
(当時在西京)    

田能村直入:今橋五丁目
小石石鱗:北濱一丁目
濱名白塢:今橋五丁目
森琴石高麗橋三丁目
世良八び:江戸堀北通四丁目
村上鏑邨:道修町

行徳玉江:常安町
田能村小齋:今橋五丁目
竹内雨香:平野町三丁目
水原梅屋:若松町
米津蔆江:大手通一丁目
井澤文波:伏見町五丁目

芳川笛邨:順慶町三丁目
中井盧香:南本町一丁目
橋本青江:南本町一丁目
尾嵜雪濤:今橋一丁目
服部槐窓:瓦屋町五番町
長 棠圃:備後町三丁目

〇國學和歌    

津守國美:住吉
中村良顕:伊丹
佐々木春夫:伏見町五丁目
武津八千穂:博労町
弾 琴緒:櫻橋
東城鬼機雄:難波
小野英龍:木津村

敷田年治:守口
真鍋豊平:伏見町三丁目
大賀大眉:堂嶌三丁目
滋岡功長:大工町
小自在:摂津村別院内
楳上澤融:薩摩堀

青柳高津鞆:住吉
有賀長鱗:北野村
松下隆和:北平野町
藤井行權:堂嶌中一丁目
平瀬春枝:北濱四丁目
渡邉資政:北渡邉町

〇洋學    

澤井秋平:淡路町

日笠彦五郎:江戸堀北通一丁目

中島寅五郎:梅本町

     
〇俳諧    

五木庵湖水:今橋二丁目
竹二庵全九:塩町
九竹園文鳳:泉町

黄花庵南齢:八丁目寺町
八千坊流美:江戸堀上通二丁目

二畳庵俳了:今橋五丁目
瀧多喜彦:鞆上通二丁目

     
〇和洋算術    

高橋矩方:安治川三丁目
福田直之進:今橋
川嶋一郎:江戸堀北通三丁目

松下千行:北堀江下通二丁目
武田鎌蔵:瓦町三丁目
新名重内:阿弥陀池裏門

尾嵜久造:北濱五丁目
立花義誠:堂嶋一丁目

〇囲碁    

吉原文之助:北濱二丁目

大塚亀太郎:南久宝寺二丁目

 
〇南北混淆画    

西山完瑛:北濱二丁目
久保田桃水:瓦町三丁目
若林長英 :高麗橋二丁目
菅 其翠 :伏見町三丁目
熊澤楚雪 :今橋五丁目

上田耕中:道修町五丁目

森 関山 :道修町
木村貫山 :天満源蔵町
藪 春翠 :堀江

松川半山:道修町五丁目

後藤祥益 :堂嶌中一丁目
呉 魚大 :瓦町二丁目
森田金洲 :曽根嵜

〇翰墨賞古諸派    

五代松陰:靭北通一丁目
高松舫洲:北久太郎町一丁目
東條雲明:土佐堀裏町
松園萃陽:生玉
田中耕雨:西天満
芝川百々:伏見町三丁目
九里葛山:本町橋詰町
建野聽山:雑魚場(建部か?)
岡本松翁:博労町三丁目
瀧野蘆香:堂嶋中二丁目
廣岡小石:西道頓堀
田中清嵜:今橋4丁目

河口象山 :土佐堀裏町
清海呉僊 :堂嶋濱
長田古香 :土佐堀裏町
片岡望樹 :住吉
波部竹城 :道修町三丁目
後藤竹軒 :高麗橋二丁目
五十川蓼洲:安堂寺町一丁目
北田雲屋 :薩摩掘
進藤柳枝 :堂嶋中二丁目
白井柳村 :心斎橋
本荘三艸 :北濱四丁目
嘉納三影:北濱三丁目

中野梧一:今橋四丁目
名和鴎彖:鰻谷
花月庵  :天王寺村
小山九江 :北久太郎三丁目
福田文適 :北濱2丁目
堀井玩仙 :順慶町四丁目
豊田長江 :北濱五丁目
中村東山 :北久太郎町二丁目
渡邉薔薇 :曽根嵜村
河野桂園 :東天満

〇新聞論説家    

加藤政之助:大阪新報
古澤 滋  :大阪日報
宇田川文海:朝日新聞
津田 貞  :此花新聞

箕浦勝人:大阪新報
小室新助:大阪日報
岡野武平:朝日新聞
若菜貞爾:此花新聞

桐原捨蔵:大阪新報
関  徳:朝日新聞

〇油畫    

加島信成:高麗橋二丁目

石川蕉蔭:伏見町三丁目 正林謙斎:中之嶋三丁目
〇閨秀    

嘉納雨琴:北濱四丁目
瀧野雨香:堂嶋中二丁目
浅野古翠:北久太郎町二丁目

五代松翠:靭北通一丁目
杉岡松琴:博労町四丁目
橋本清蘋:南本町一丁目

九里松香:安堂町二丁目
大西秋翠:老松町

〇明清合奏    

平井連山:淡路町二丁目

永原梅園:博労町五丁目

山田琴山:瓦町三丁目

〇篆鐫    

行徳玉江:常安町
加島信成:高麗橋二丁

波部竹城:道修町四丁目
武藤鉄齋:北濱四丁目

東門興齋:野田村
小野英龍:木津村

〇銅版師    

水口龍之介:横堀四丁目

響泉堂高麗橋三丁目

若林春水堂:北濱貮丁目

〇畫絖絹用具    

白木吉蔵:北久宝寺町三丁目

津田安之助:南久宝寺町二丁目

吉村甚右衛門:順慶町二丁目

〇表具職    

山中吉兵衛 :天神裏門
豊田重兵衛 :靭北通

春日四郎兵衛:博労町四丁目
鍋島源治郎 :堂嶋中通

春香堂  :江戸堀下通
吉田定七:池田町

〇書畫周旋人    

紅花堂:北久宝寺町四丁目
梅影堂:高麗橋三丁目

團扇堂:北濱四丁目
貴川堂:曽根嵜

大容堂:北濱四丁目

〇書畫骨董    

山中春篁堂:北濱二丁目
西尾五福堂:伏見町三丁目
岩井巖々堂:伏見町四丁目
溝口正昇堂:堂嶋裏二丁目
清風堂:今橋二丁目

春篁堂支店:高麗橋三丁目
朝翠堂:老松町
植村平兵衛:備後町五丁目
金谷堂:高麗橋一丁目
真香堂:老松町

後藤祥雲堂:高麗橋二丁目
田生堂:老松町
赤松傳六:新町沙場
白李堂:順慶町

〇盆栽    

松井吉助  :高津
中西卯兵衛:四ツ橋
植丈 :梅ケ辻

大谷彌七:難波新地
大谷和助 :下寺町

艸楽園:老松町
樹徳園:梅ケ辻

〇筆墨師    

古楳園 :南久宝寺町五丁目
曜光堂 :高麗橋三丁目
宮内徳應:南地五番町

文財堂:平野町四丁目
晴雲堂:松石町

一光園:伏見町
榮盛堂:老松町

〇醫業    
 (府立病院長)    

吉岡顕三:堂嶌船大工町
高安道純:道修町四丁目
匹田修菴:南本町四丁目
藤井秀廣:立売堀北通五丁目
太田豊明:平野町ニ丁目
小野玄信:玉江町一丁目
岡 敬安:天神筋町
華岡修平:塩町通五丁目
西村輔三:伏見町丼池角
鹿島昌禎:新町四丁目

神田由巳:豊後町
高橋正直:江戸堀北通一丁目
加藤謙蔵:嶋町ニ丁目
江守敬壽:清水町上之町
春日育造:今橋三丁目
山本供輔:松嶋仲之町
福島元恭:新町南通ニ丁目
大澤養性:西道頓堀幸町
松島秀道:嶋町ニ丁目
松本 愛:舩越町ニ丁目

高橋正純:若松町
緒方拙齋:北濱三丁目
松尾耕三堂嶋中ニ丁目
楳田 雪:高麗橋四丁目
中路重貞:天神橋筋三丁目
荒井長賢:心斎橋筋一丁目
亀山貞助:京町堀通三丁目
白井俊造:阿波座三番町
多川周硯:安土町三丁目

○能狂言    

金春廣成 :豊後町
橋岡忠三郎:平野町ニ丁目
根津真五郎:戸屋町
森田作二郎:大手一丁目
岸 致敬 :北濱五丁目
大西虚齋 :北濱三丁目
新西市兵衛:塩町三丁目
高井文造 :ニツ井戸

高村太左衛門:高麗橋三丁目
赤松雅江 :平野町ニ丁目
中村彌三郎 :平野町ニ丁目
野田傳之助 :北濱一丁目
谷 元四郎 :本町一丁目
今井幾四郎 :新町南通五丁目
野村又三郎 :新町南通一丁目
林 甲子郎 :籠屋町

大西鑑一郎:北濱三丁目
春藤萬作:北野村
高瀬兼三郎:
生駒秀三郎:塩町一丁目
谷 市之進:本町一丁目
岡田泰蔵:天満樽屋橋
和田為吉:安堂寺町一丁目


○免許代言人

樋口保熈:土佐堀裏町六番地寄留/寺村富榮:今橋一丁目五番地寄留/林 貞次:北濱三丁目二十一番地
柴山正憲:瓦町一丁目八番地寄留/佐久間俊明:今橋四丁目十六番地/山下重威:天神橋筋三丁目五十九番地寄留
大藤高敏:高麗橋一丁目四番地/三宅徳馨:江戸堀下通一丁目二十九番地寄留/岡嵜高厚:今橋四丁目十七番地寄留
宇津木孚明:土佐堀裏町九番地寄留/松山廣居:江戸堀北通五丁目二十七番地寄留/相澤貞久:東成郡森村四丁目三十一番地
木村恕平:江戸堀上通ニ丁目二十番地寄留/菊池侃三:今橋四丁目九番地寄留/小島忠里:高麗橋五丁目四十六番地寄留
長井 保:土佐堀裏町二十五番地/岡嵜仁三郎:阿波座下通ニ丁目十八番地/失野 勝:江戸堀上通一丁目十一番地
森 作太郎:玉江町一丁目十七番地寄留


〇官餘游戯  

洋楽 :建野卿三
書  :岡本隆興(京町堀五丁目)
画和歌:宮嵜梅叟(北濱二丁目)
詩 :小柴景起(福嵜)
書 :豊田井蛙(曽根崎)
和歌 :廣瀬耕石(中之嶋五丁目)
詩 :高宮正路(靭)

詩書 :大野橘蔭(川嵜)
詩  :相良錦谷(江戸堀北通一丁目)
詩文 :田部苔園(北濱二丁目)
画 :藤田秋晴(川崎
詩 :森田四牛(堂嶋五丁目)
詩鑑定 :三角正義(備後町一丁目)



(二)『大阪名所独案内(おおさかめいしょ ひとりあんない)』

伴源平著/響泉堂刻/柳原喜兵衛,北村孝次郎,北村彦助 出版/吉岡平助 発行/明治15年3月



[大阪名所独案内 下]  ~末尾附録3,4丁~


大阪名所独案内


〇漢学及詩文畫    

詩書家
詩文
詩書畫

詩書

詩文
詩書畫
詩書

北濱五
備後町一
淡路町
土佐堀裏町
今橋
伏見三
新町東口
桃谷
近江町
平野町

小原竹香
河野春諷
藤澤南岳
寺西易堂
戸谷萩堂(澹斎)
坂本葵園
妻鹿友樵(森琴石師匠)
日柳三舟
和田小耕
田口母山

〇書家及詩文    

書画


漢学詩

若松町
高津
島之内
北渡邉町
平野町

水原梅屋
石橋雲来
村田海石
名和對月
山野邉鯤女

〇南畫及書    

書詩畫




詩兼



書兼

今橋
北濱
常安町
今橋五
南本町
高麗橋三
若松町
今橋一
順慶町
備後町
南本町

田能村直入
小石石林
行徳玉江(森琴石兄弟子)
濱名白塢
橋本青江
森 琴石
水原梅屋
尾嵜雪濤
芳川笛邨
長棠圃
中西蘆香

〇混淆畫家    

瓦町
伏見町三
北濱二
道修町五

瓦町三
今橋五

伏見三

佐藤魚大
玉手翁洲
西山完瑛
上田耕中
松川半山
久保田桃水
熊澤楚雪
鎌田巖泉
菅其翠

 

◆大阪名所独案内の挿画は、「森琴石と歩くおおさかの町」のタイトルで、<大阪日日新聞>にて毎週木曜日の朝刊版で紹介されました。



(三)「大阪市中近傍案内 (おおさかしちゅう きんぼうあんない)」

編纂:森弥三郎  発行:榊原英吉
特約売捌:吉田大華堂、柳原積玉圃、田中宋榮堂、此村欽英堂、此村黎光堂
鴻英舎発行/明治21年


新聞雑誌発行所
朝日新聞―北區中之島三丁目3番地
浪花新聞―東區高麗橋三丁目十三番地
大阪日報―同區同所
東雲新聞―北區堂島中二丁目四十七番地
愛國之友―東區今橋四丁目十二番地
經濟叢話―北區信保町一丁目百卅八番地
智恵の曙―西區土佐堀四丁目三番地
文之友―東區平野町二丁目十二番地
技藝新報―西區北堀江下通一丁目九番地
朝日新聞社
浪花新聞社
同社
東雲新聞社
愛國社
蜂(虫+居)堂
福生社
文友社
技藝新報社
新聞記者
織田純一郎・岡野武平・宇田川文海・関 徳・三品花彦・羽山尚徳・中井篤介・宮嵜亮一・清水隆徳
大阪免許代言人
寺村富栄・佐久間俊明・山下重蔵・大藤高敏・岡嵜高厚・寺田寛・菊池侃二・尾形兵太郎・沼山格正・北村左吉・田中稲人・石橋栄太・金丸蔵・善積順蔵・森作太郎・砂川雄峻・城山靜一・渋川忠二郎
皇國学并ニ和歌
津守國美・敷田年治・中村良顕・眞鍋豊平・渡邊資政・加藤小自在・吉田健次・井上喜復・村山守雄・滋岡従長・山田淳子・平瀬春枝・弾琴緒・井上景明・笠原百春・清水眞幸・味原正量
漢學及詩文
藤澤南岳・小原竹香・戸谷萩堂・寺西易堂・日柳三舟・坂本葵園・大塚寛齋・妻鹿友樵・  田口母山・和田小耕・谷 喬・近藤元粋・佐野元恭・矢野章山
書家及詩文
村田海石・三瓶浩齋・奥村呉菴(?)・長棠村(注:圃の誤り)・玉木愛石・高山雲谷・田中正應・小笠原香雨・川上泊堂
南画家
田能村小齋・行徳玉江・水原梅屋・橋本青江・小山九江・芳川笛邨森琴石・原田移石・中西蘆香・長棠圃・尾崎雪濤
諸流画家
西山完英・佐藤魚大・狩野永祥・上田耕仲・森閑山・久保田桃水・玉手菊洲・中川蘆月・薮春翠・若林長榮・長谷川貞信・一勇濟芳國・笹木芳瀧・中井芳光・木村文鳳・森田金洲・木村貫山
油畫家
加島信成・鈴木蕾齋・石川蕉蔭・正林謙齋
洋学及筆算
福井楠喜・吉田健吾・平林禮・石川弥太郎・加藤好三
数学家
高橋矩方・福田直之進・尾嵜八郎・武田謙蔵・川島一郎・立花義誠
篆刻家
後藤竹軒・小野英龍・武藤銕齋・波部竹城・東門興齋・行徳玉江
醫家
吉田顕三・堀内利國・高橋正純・緒方拙齋・山田俊卿・花岡俊造・春日道純・疋田修菴・
小野春臺・森鼻宗治・加藤謙造・物部誠一郎・日野則義・松本玄俊・大野晩造・西村輔三・
岡敬安・松島秀道・松尾耕三・小野玄信・下河辺俊齋・賀川春哲・菅煥齋・永野文良・
山中篤衛・松本瑞・花岡義章
物部誠一郎=府立大阪病院医師 大阪病院=大阪日日新聞《森琴石と歩くおおさかの町》内大阪病院に記載/明治期半ば以降、森家の家庭医であったようだ(森琴石日誌)/響泉堂刻「達爾頓氏生理書図式.」の訳者⇒調査情報 「平成16年3月」、「平成18年8月【3】注2 a
能楽家
高村太右衛門・生一左兵衛・大西鑑一郎・橋岡忠三郎・赤松雅枝・春藤萬作・根津眞五郎・中村弥三郎・海北六之助・青江保太郎・榮保蔵
狂言家
野村又三郎・同廣之助・和田為吉・井上嘉次郎・岩城徳松・澤田保蔵・高井文蔵
能囃子家
笛:森田作次郎、同野田傳之助/鼓:生駒秀之助、同岸致敬/太鼓:谷市之進、同江嵜茂右ヱ門
明清楽
平井連山
一絃琴
真鍋豊平
風琴
柴田・春田・市川
茶湯師家
佳山江甫・狩野宗朴・細谷・磯矢宗庸・湖月庵
煎茶家
花月庵
囲碁家
大塚亀太郎・吉原文之助・泉興兵衛・田畑孫兵衛・岡田喜八郎
将棊家
今井安蔵・小林東白齋・(木+番)亀・和田・小栗
活花師家
遠州流:江南齋/石州流:湖月庵/遠山流:里成齋/未生流:廣成齋/客真流:成龍齋/正風遠州:榮秀齋
琴三絃師家
菊池・菊山・菊高・菊田・津山・豊賀・中宮・中平・中儀・富永・富嵜・富岡
狂歌
孤月菴自詮・久鳳舎桐丸・九梨園朶丸・柳園長丸・豊の門良隆・石可亭美清・都花園御代丸
情歌
志賀廼家露情・青陽舎如竹・雨廼家狸遊・一本紫・五明菴扇子・福壽亭有圓
相撲
猫又三吉・虎林虎吉・追手風順吉・六ッヶ峯駒吉・九文龍大五郎・殿リ源吉・加賀林庄七・眞鶴政吉・東関丑蔵・山嵐八三郎・雲鶴政太郎・黒柳佐吉・大錦大三郎
相撲頭取
小野川信蔵・藤島和一郎・千田川松五郎・湊由良右ヱ門・枝川藤兵衛・八陣政五郎・陣幕甚次郎
行司
木村玉之助・木村清兼・木村寅之助


◆「大阪市中近傍案内」での<森琴石>掲載情報ご提供者=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)
◆「大阪市中近傍案内」 当ホームページ記載分資料ご提供者=熊田司氏(阪市立近代美術館建設準備室 研究主幹)

―いずれも平成14年春 ご提供いただきました―


大阪の文明開化(おおさかの ぶんめいかいか)

◆森琴石は、多感な思春期・青年時代を過ごしたのは江戸末期の頃であった。大人になる頃、明治維新を迎えた。急速な西洋文化が取り入れられ明治の初期、これまでとは制度や習慣が大きく異なる<異文化>を体験した。
下記は、大阪での文明開化の表れを簡単にまとめたものです。

★資料ご提供者=堀田暁生氏(大阪市史編纂所長)

大阪の文明開化


1.川口居留地とお雇い外国人

外国人が大阪に住むようになり、その生活様式が目の当たりに展開された。たとえば、居留地(慶応4年7月競売)では、車道と人道が分かれ、街灯が設置されたほか、下水溝もあった。
犬の散歩、洋服・帽子にステッキ、パラソルなど。
造幣局・舎密局・大阪病院などの施設には、お雇い外国人と呼ばれる外国人技術者・教師が勤め、技術や新知識が伝わった。

★当HPでの関連箇所=平成15年5月 / 造幣局=「平成12年8月◆4番目/平成17年8月注7平成19年1月【2】■3番目 / 舎密局=平成19年1月【1】注6,7※2つ目   など


2-A.学制・徴兵制による影響

学校建設に洋風建築が取り入れられる。ガラス窓、ランプ、旗、西洋数学、西洋音楽などが導入される。時間割の採用。
軍隊内での、時間厳守の規則化された生活。


2-B.服装の変化

髷が廃止され、断髪となった。床屋が理髪に変化。
ジャン切リ頭ヲタタイテミレバ文明開化ノ音ガスル(「新聞雑誌」2.明治4年5月 明治4年8月、斬髪脱刀勝手たるべし、・・・大阪府明治5年9月、頭髪に関する府達
女性の服装、ヘアースタイルは明治18年ころから洋風化にむかう、束髪

★当HP関連箇所=資料-詩賛:「森琴石断髪弾琴之図」・平成19年8月【1】■4番目   など


散髪
2年ころ小笠原熊五郎、4年土居某?
制服の影響、軍人・警察官が制服着用、官吏も通礼服・大礼服など、洋服化が進む。
制服
造幣局、区長から番卒まで洋服(4年)
羅卒
慶応4年、大阪府捕亡方・・・明治3年大阪府兵(浪華隊)解散 → 捕亡掛増員・・・明治4年 取締掛・・・明治5年 取締番卒を取締羅卒と改称、明治6年 番人と改称・・・明治8年4月 番人を羅卒、11月羅卒を巡査と改称。
洋服
足袋屋などの副業として明治元年ころ、加賀悦・江戸定・福田彦次郎ら15軒ほど、舶来屋と呼ばれていたが、5年ころには50軒ほどになり、洋服屋と呼ばれるようになる。
草野丈吉も業界の筆頭という。4~5年頃羅卒の制服を納入、川口で舶来雑貨と洋酒を商っていた有本賀三に下請けさせる。 → 独立のち煉瓦の洋服屋。西南戦争では軍服の調達。
メリヤス
明治3年横浜で西村勝三の靴下製造が最初。明治5年に上田長次郎が機械を譲り受け、中之島で製造開始。
帽子
慶応2年に竹内清兵衛が模造品試作。フェルトの帽子、明治23~24年頃浜谷末太郎が製法を修得、製造始める。
紡績
明治12年渋谷紡績所(堂島)  明治15年大阪紡績会社(16年操業) 本格的大規模工場ミシン 慶応4年ころから ミシン輸入。
洋傘
輸入
明治3年1月8日 町人の洋傘禁止令(武士と町人が紛らわしいため)
近来百姓丁人之内、蝙蝠傘合羽又者フランケット着用ニテ往来致シ、帯刀人江相紛レ、且右ヲ着用致シ、盗ミ致候者間々有之(4年3月17日許可)
明治6年 井上浅 輸入品を分解して製造を始める。10年頃から盛ん。13年には輸出も。
ボタン
明治16年ころ 縄田久太郎 貝ボタン製造。
西洋洗濯
川口付近から広まる。6~7年頃 川口の奈良屋など。名倉某とも。
  
文久元年革靴 軍艦で可(幕府) 明治3年西村勝三が製靴工場、明治3年紀州靴の製造
藤田組 明治5年頃 中国人技術者 / 大倉組 明治10年ころ
藤田組がドイツ人ハイトケンペルらを雇い軍靴製造
  
明治4年頃から   明治18年 新田長次郎が製皮工場を造る。
石鹸 
明治4年 東京で工場生産、 7~8年ころ大阪でも熊谷勉が土佐堀で工場設立。
湯屋 
慶応4年8月19日 大阪府 男女混浴禁止 / 明治2年2月 東京府 男女混浴禁止

3.太陽暦の採用(明治6年)

全国同一の時刻。時計の浸透、交通機関の時刻表、学校の時間割。公共施設に時計台の設置。

電信
明治3年8月 神戸-大阪間
郵便
明治4年

4.食生活

肉食の始まり(慶応4年 新町に肉店すし卯-牛肉すき焼き専門店の最初)  すき焼き。

豚肉
明治5年ころ流行。 明治初年 下田徳兵衛が精肉店開店。
ビール 
4年に大阪開商社(通商会社)が製造計画、米人フルスト指導、実現せず。頭取の渋谷庄三郎が引き継ぎ 堂島で生産開始(5年3月) → 渋谷ビール
牛乳 
初年に雑居地で販売? 土井喜右兵衛門 3年に谷町1丁目で搾乳
パン
初年に雑居地で販売? 7年梅田の梅月堂 天満の指月堂など? 9年4月芳村与兵衛が西洋パン・菓子パン製造-天神橋南詰
ラムネ  ポン水  
神戸居留地18番 シム商会  大阪では華商などが販売。

5.交通革命

蒸気船、汽車の登場。籠から人力車へ、人力車から巡航船へ、巡航船から市電へ。
木橋から鉄橋へ。高麗橋・心斎橋・新町橋など、外国製の橋材使用。

人力車
明治2年 東京で発明か、大阪では明治3年12月に規則制定。
自転車
明治14年渡来、明治27~28年頃 販売店が大阪にもできる(輸入品)
川口の米国宣教師、富豪の子弟。

★当HP関連箇所  鉄橋=森琴石の画号<鉄橋> →「平成10年10月


6.趣味その他

玉突き、バザー、博覧会


7.印刷・写真・マッチ

本木昌三が明治3年に活版所を大阪につくる。法令などが活字で印刷される。新聞が生まれる。明治元年ころには大阪にも写真師がかなりいたと云われる。マッチは明治7~8年ころから 大阪でも製造されはじめる。

西洋紙
明治7年 中之島に製紙工場、 8年から操業、マッチ用紙・包装紙・新聞紙

★当HP関連箇所 マッチ=「平成16年7月◆メモB」・「平成17年7月■3番目」 写真=作品その他:「幕末若者像」、「平成19年7月【2】注4」 など


8.建築の洋風化

造幣局・大阪駅・学校など

ガラス
明治6年品川で板ガラス製造。明治8年 大阪の伊藤契信が川崎村で舷燈ガラス器等の際増開始。16年日本硝子会社。各種硝子製造。
ブリキ
一説:元治元年頃、一井善七が弁当箱・茶筒を作成と伝える。大谷宗七が明治元年ころから ブリキ細工業に転じる。
一説:明治4・5年頃 大阪にブリキ板出現、ブリキ細工が盛んになった。缶詰・石油缶など。

9.経済面での変化

両替商の没落、銀行の誕生、商法会議所・取引所の成立など

銀行
明治5年11月15日国立銀行条例。国法によって建てられた銀行の意味、民間銀行。
大阪 - 第三国立銀行出願認可 → 紛議で廃止。
6年12月 第五国立銀行開業(西区) → 9年本店が東京へ移転。明治12年国立銀行設立禁止。この間 第十三・二十六・三十二・四十二・五十八・百二十一・百二十六・百三十・百四十八など設立。
私立銀行
明治13年に 川上・逸見・谷村・木原・富岡・樋口・水野銀行
日本銀行(明治15年) 紙幣発行権集中

★当HP関連箇所  両替商=門人-泉州:「氈受楽斎(四)・(六)」など / 銀行=「平成20年8月■4番目&注4」 など / 森家に”川上銀行”の扇面下絵あり


10.国際結婚・洋行

個人的に西洋を体験する。



参考文献 : 石井研堂『明治事物起源』、 今戸栄一『文明開化事物起源』 日本放送出版、 小菅桂子『近代日本食文化年表』 雄山閣ほか


資料紹介(日誌書簡詩、賛)|関連資料(一覧

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