森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 関係人物紹介

森琴石の師匠や先輩・友人知人など、また琴石の周辺の人物を紹介します



■師匠・先輩たち

南画


鼎金城(かなえ きんじょう)

●森琴石の画の師匠
●鼎春嶽(かなえ しゅんがく)の子
●関連事項=平成17年4月11月・関連資料「鼎金城の墓碑」・「橋本香坡」・「森琴石 画家系図
●鼎金城の門下=行徳玉江・塚村暘谷・西嶋青浦・堀井玩仙・森琴石など
●鼎金城の師匠=岡田半江・金子雪操・廣瀬旭荘
●鼎金城や、その師匠・門下については目下調査中、既刊の資料などより一部ご紹介します



鼎金城作品


2幅共・・・文久2年(1864)・紙本墨画淡彩・172.5×69.0cm

「梅竹争妍図」 「松鶴延齢図」
松竹争妍図 松竹延齢図

◆画像ご提供者=熊田司氏(大阪市立近代美術館建設準備室)



(一)
『なには草※』
 ~名家訪問録 檜の陰(四)鼎金城の小傳~ より

◎墨をおもにしたる岡田半江・筆をむねとしたる金子雪操、この両家に学びて、巧みにその長所を調和して、能く一家を成したる鼎金城は、一生轗軻不遇(かんかふぐう)なりしなり。

その生まれしは、文化元年の春にして、父春嶽は、その秋に歿し、母また多年ならずして、世を逝りしかば、父の門人秦黄山これを保字して、漸く絵事を教えしが、黄山も歿し、尋いで大塩後素の乱ありて、秦氏が天満六丁目の宅、災に罹りぬ

金城は、また寄るべを失いて、秦氏の姻戚なる福島の戸田氏(大和屋平作)に寄寓し、半江、雪操に前後師事して、遂に当時浪華の丹青界に一旗幟を樹たりき。

◎金城人となり温籍沈黙にして、利塵名埃に染みざりしかば、その畫詩ともに、清瑩酒脱なり。

詩は、旭荘に就いて、学びしか、その稿多くは、散逸せり。

明治二十年の春、その二十五年の忌辰に当りぬれば、門人故旧相謀りて、祭事を修し、門人たる玉江翁は、遺詩一百首を収録して、これを活刷に附し、霊前に供したり。

金城遺稿即ち是なり。

◎金城嘗て同門の士と、旭荘の宅に會せり。

談たけなはにして、旭荘は、各得意の事を語らん、といいぬ。

藤井藍田その声に応じて、僕は最も才子を愛すといえば、旭荘笑いて、子が所謂才子とは、妻子ならずや、とて、一座哄然たり。

かくて、諸子皆いう所ありしが、最後に、金城は、徐に、僕は、未だ會って自ら知りつつ、小悪事だも犯ししことなし、といいき。

この一語こそ、洵に金城の一生を想見するに足るなれ。

『なには草』=(磯野秋渚著/千葉徳松発行/明治38年3月)

◆お断り:原文の旧仮名づかいは読みやすくし、旧漢字も一部平易なものに置き換えました。



(二)
鼎金城

かなえきんじょう  画家。
文化八年(1811)大坂生まれ。
名は鉉、字は子玉、別号澱水・受采堂、通称平作。
誕生後間もなく父春嶽が死亡したため、大変な苦労をしたが父の血を引いて生来描画に勝れ、回り道もしたが岡田半江に師事、さらに金子雪操にも訓育され、ようやく一家を成した。
厳しく指導した半江も賞して「春岳以て瞑すべし」と嘆じたという。
以後浪華では田能村直入と人気を二分した。
晩年は廣瀬旭荘に漢詩を学び、死後「金城遺稿」を門人たちが出版している。
人柄は寡黙温和、親族旧知の義を重んじた。
文久三年(1863)五月五十二歳没。
門下から森琴石ら俊英が出る。

◆「大阪人物辞典」(三善貞司著・清文堂・平成12年)より

(三)
森琴石「箱書き 控え」より

七月十日
田中氏属

  蜀山雪齋之圖 
     先師鼎金城先生筆 条幅

此幅先師鼎金城先生畫 蜀山雪齋之圖 条幅也
先師金城先生子玉別號澱水通稱平作
浪華人以文化辛未生父春嶽歿後雪操半江
親厚研究畫法山水花卉皆精妙
廣瀬旭荘善詩為人温籍沈黙
不省名利故其畫與詩洒脱風塵
優入佳境文久三年五月病歿五十三年矣
此幅先師金城先生蜀山雪齋之圖
              珍品因爰畫之

 年号は不明

(四)著書


「金城遺稿」(鼎金城著・行徳玉江編・明治20年)

(五)鼎金城に関する資料


1.

鼎金城の漢詩
『日本名勝詩選(第5・6集)』(行徳玉江編・大阪 青木恒三郎刊・明治32年・3冊 )

画像=京都大学附属図書館所蔵 谷村文庫 『日本名勝詩選(第5集)』

 該当頁には、廣瀬旭荘・石橋雲来・鼎金城・斎藤拙堂 の詩文あり

画像のアドレス
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0036/image/72/0036s644.html

2. 鼎金城の書簡
所蔵=関西大学図書館(総図文庫特別)
鍵屋平三郎宛・鼎金城自筆毛筆・一通(未調査)

3. <鼎金城>の記述がある書誌

イ: 『日間瑣事備忘』(廣瀬旭荘著/天保4年~文久3年)
ロ: 『贈從五位廣瀬旭荘先生小傳』(廣瀬貞治発行/大正13年7月8日)
ハ: 『廣瀬淡窓旭荘書翰集』(長壽吉・小野精一共編/弘文堂/昭和18年5月15日)
安政2年3月23日:青村宛書簡
ニ: 『大阪の歴史と文化』(井上薫編/廣橋研三発行/平成6年年3月28日)
小堀一正氏文:幕末大坂文人社会の動向 ―広瀬旭荘と藤井藍田・河野鉄兜らを中心に― 
ホ: 『定本 藤井藍田研究』(藤井善男著/新風書房/平成14年6月10日)
― 6:藍田と深交のあった文人たち―

4. 鼎金城の画が掲載されている書誌・・・(2012年7月26日に追加挿入しました)

澹如詩稿 (6巻)』
菊池教中(澹如)著/桑原桂叢等,画./安政7年2月
◍『澹如詩稿』=<菊池教中>が安政7年に刊行した漢詩集
◍第3巻 に鼎金城の「天保山廻棹」の画あり

★『澹如詩稿』の補足説明は 順次wha's newで記述の予定です

『澹如詩稿』略概要
表紙=大槻磐渓(題字) 佐藤一斎(坦題) 関藍梁他(書)
序文=大橋訥庵撰
評点=牧 百峰、大沼沈山 など

目次
第1巻   雑体
第2巻   東遊謾草
第3巻   西游雑詩
第4巻   函嶺記游
第5巻   夏日三十録
第6巻   七言絶句

巻中画人名氏
巻1   巻2
(タイトル) (画者)      
小斎謾題 桑原桂叢   匹馬駄詩 藤田素堂
松鶴 栗山石寶   築波山 福田半菓
藤花 渡邊小華   霞浦浮舟 富取芳斎
蕉陰茗話 相澤文石      
義人睡起 安西采石      
竹渓漁隠 春木南溟      
巻3   巻4
清見寺 金子雪操   山居囲碁 山本栞谷
高雄即事 日根対山   柳條鳴蝉 渡邊崋山
天保山 魚住荊石   山水 高久靄厓
天保山廻棹 鼎 金城   飯泉回顧 澹如生
夏日嵐山 渓口靄山      
浪華橋寓舎 田能村小乕      
訪海屋翁屋 吉田公均      
東福寺 中西耕石      
五條橋 小田海僊      
有馬記事 田中介眉      
兎路興聖寺 中林竹渓      
巻5   巻6
柳陰繋艇 斎藤拳石   梅間弾琴 秦 隆古
墨竹 稲本黙雷   漁夫 鈴木鵝湖
吉澤松堂   牡丹蜩蝶 春木南華
      墨竹 枚田水石
      秋晴郊外 熊坂適山
      左原散歩 平井顕斎
      瓶花 岡田半江
      帰雁 椿 椿山
      春蓜秋草 葭田蔡泉
      梅花書屋 馬場竹逸
雪堂大橋遷高書

漢数字はアラビア数字に、一部旧漢字を当用漢字に置き換えました
当書誌は国立国会図書館でデジタル資料化され、インターネットで公開されています。
閲覧するには国立国会図書館利用者ID番号、パスワードが必要です。
鼎金城の画は<澹如詩稿 6巻 [2]>、第24コマ目にあります。

(六)その他


★漢詩の師匠「廣瀬旭荘」は、文久3年6月1日、鼎金城の葬儀に参列後、摂津池田に移転。2ヵ月後の文久3年8月17日 (1863)に死去した。

(七)森琴石自筆 ―「鼎金城」伝記 下書き

  資料は平成26年(2014)9月25日、森琴石ひ孫森 茂氏(宝塚市)よりご提供頂きました。
  What's New?で記述しています。
  「森琴石自筆:師匠「鼎金城」の伝記の下書き」をご覧ください。

            森琴石:伝記・履歴・提出書類の下書き
  
              サイズ:縦22.6cmx横15・8cm
                全91頁分、最初の頁

妻鹿友樵所蔵 七弦琴図「青湾茗えん図法 羊」


鼎金城門下

行徳玉江(ぎょうとく ぎょっこう)


●関連事項=「平成16年1月■2番目」・「平成17年11月■2番目12月【1】」・「平成18年11月【1】■6番目」・「平成18年12月【1】 注3 南画独学揮毫自在(ニ)」・「平成19年6月【1】■7つ目
●森琴石より15歳年長の兄弟子。森琴石とは書誌出版でコンビを組んでいる。門弟「佐野琴岳(のち岱石に)」は、玉江歿後森琴石の門下となった。
●江戸末期~明治期の大坂の文人社会で、中心的人物として重きをなした。
廣瀬旭荘に詩文を学び、幕末の激動期に同師匠を良く支えた。

(一)
行徳玉江

檜園九柳十橋逸史等ノ號アリ
大坂府下北區常安町に住ス
行徳元恭(號茘園)ノ男ニシテ文政十一年五月十四日生ナリ
畫ヲ以鼎鉉(金城)ニ學ヒ詩文ヲ廣瀬謙吉(號旭荘)ニ學ヒ
篆刻ヲ呉又兵衛(號北渚)ニ受ヶ貫名苞(菘翁)及沙門鐵翁と畫法ヲ交論シ
九州備後出雲越前伊勢等遊歴シ風人餘藝畫書落款自在等の著述アリ

ー「内国絵画共進会出品人略譜」(農商務省版・国文社刊・明治17年5月)ー

(二)
『なには草
~名家訪問録 檜の陰~ より
{一}小序・・・・・行徳玉江
◎浪華における風流会の古老にして、行徳玉江を訪いつ。翁年七十二にして、猶健やかなり。近来脚症を患えて、但行歩に便ならず。されど、びびとして、談じて少しも倦まず。

◎翁、学を篠崎小竹に、詩文を廣瀬旭荘に、画法を鼎金城に、篆刻を呉北渚に受けて、各ゝ得る所あり。旭荘の梅とん(土+敦)詩抄第四編に、しばしば見えたる行檜園(こうかいえん)、玉江画史等は、皆翁の別号なり。

◎翁もと玉江橋(たまえばし)南詰東へ入りたる処に住めり。庭には一樹の老檜ありたれば、檜園(かいえん)を号とせり。その後旭荘が、好橋名、徒に看過すべからず、と云いしより、翁遂に玉江(ぎょっこう)を号とせり。
{ニ}玉江・・・・・今枝夢梅・・・・・鼎金城・・・・・貫名海屋
◎翁医家に生れて、画を好めり。少(わかき)時、京に入り、儒医今枝夢梅(譲助)に刀圭の術を学ぶこと四年なりき。夢梅余事として、丹青を好み、寸暇あれば、筆を舐め、楮(かみ)に臨みぬ。翁いつもその顔料(えのぐ)ときを命ぜられたり。素より好める処へ、かかる襯染(しんせん)ありしかば、遂に画史たらんの念も起りしなり

◎某の画譜を撫し、某の粉本を模しつつ、頻りに、無謦詩に心をこめたる翁は、猶師事する人もあらざりしが、某の宅にて、はじめて金城に逢い、その画論を傾聴し、そが云うに任せて、平生臨写せる所を示ししに、金城一見して、この子教うべし、とて、是より、或は臨本を貸して、専ら翁を奨励せり

◎翁の医業、行われざるにあらざりしかど、画を好むの厚さ、それに能わ(あたわ)ざりき。翁の叔父、翁を誡めて、いずれか一途に専心せよ、と云いしかば、翁断然と薬匙を擲(なげう)ちて、絵事(かいじ)にのみ勤め、克く(よく)鼎家の衣鉢を奉じて、造詣漸く深うなれり。この後、しばしば旭荘に陪う(したごう)て、山陰山陽を歴遊し、丹青一枝の筆を揮霍(きっかく)したりき。

◎当時、京師にて、貫名海屋が書画雙絶の名声籍々たり。翁數その門に出入し、益を受くること少からざりき。
海屋かって云いしに、筆尖(ひつせん)一たび墨瀋を浸して、揮灑するに、墨渇るゝに至らずば、再び浸すべからず、書画共に然り。と云いしかば、翁は、今にこの教えを奉ぜり。
{三}画僧鐵翁
◎長崎の画僧鐵翁、貧寺に住持たり。性疎懶にして四方より来囑せる絹紙は束閣して、輙ゝ揮灑(きさい)せず。書画周旋屋某、冬日に画の催促かたがた鐵翁を訪ひつるに、鐵翁蕭然と火なき炉辺に兀座袖手して、唯寒し寒しと呟きいたり。

某小才あり。疾く鐵翁の弱点を看破し、近頃買ひたる良炭あれば、これをもて、聊か(いささか)和尚の寒を解かん、とて直ちに寺僕に命じて、自家の炭一俵を取り来らしめ、これを火にして火鉢に堆きまで盛りて、鐵翁に進めつ。鐵翁喜気眉宇に溢れ、火に対すること、一時ばかりにして、忽ち大呼し、暖正に融れり、画なかるべからず、とて、即てけん素を展(の)べ、縦横揮灑して、某に与え、筆を投じて、一俵の炭と我が画と相換ふ、我が損する所、甚だ大なり、叉しても黠奴(かつど)にはかれたり、とて唖唖大笑せり。

是も玉江翁客遊中の見聞に係る

◆『なには草』=(磯野秋渚著/千葉徳松発行/明治38年3月)

◆注:原文の旧仮名づかいは読みやすくし、旧漢字も一部平易なものに置き換えた


(三)
行徳玉江墓   福島中三丁目  妙徳寺

善畫善詩。善書喜印篆。 皆以温柔敦厚出之。
見其藝可以知天者。玉江先生是也。
先生諱。字仁卿。姓行徳玉江其號。
又號檜園九柳十橋逸史。大阪人。
家世眼醫。先生承業。傍達諸藝。
所師學小竹。詩則旭荘。畫則金城。書與篆則北渚
所遊之地九州及備雲勢諸州。
人皆推奨焉。及老患脚疾不復遠游。
著書自遺。而人目為畫伯。
明治卅四年六月廾二日没。享年七十四.
子直敬。號玉園。有才藝。先歿。
孫曰直誠未弱。門人故舊。
為克後事。表其墓。先生得門人推敬。又温柔敦厚所致也。
余相交四十年。乃以誌之。
    浪速 南岳藤澤恒壱撰  田中直謹書

ー「大阪訪碑録(浪速叢書 第十)」(船越政一郎編・浪速叢書刊行会・昭和4年5月)=大阪市立福島図書館ー
(四)
行徳玉江  ぎょうとく ぎょっこう

画家だが趣味・教養は広い。
文政十一年(1828)大坂生まれ。名は貫、字は仁卿、通称元慎、別号行絵園。
家は玉江橋畔にあり代々眼科医を業とした。
玉江は、広瀬旭荘が、「好橋名、徒らに看過すべからず」といったため、画号にした。
京都に上り儒医今枝夢梅について医学を修めるが、夢梅は描画が好きで暇さえあれば玉江を従えて写生に出掛けた。
玉江は荷を担ぎ絵具を溶くうちに次第に興味を持ち、浪華に戻って家業を継ぐ傍ら、鼎金城に師事して本格的に学んだ。
玉江の趣味は広かった。篠崎小竹に儒学を、広瀬旭荘に漢詩を、呉北渚に書道と篆刻を、さらに貫名海屋の教授も得るなど諸芸に通じている。
人柄は温厚、偏屈な旭荘のお供をして諸国遊歴をしたほど。
明治三四年(1901)六月七三歳歿。

ー「大阪人物辞典」(三善貞司著・清文堂・平成12年)よりー
(五)著書類

1. 「画書題跋落款自在. 巻上,中」
行徳玉江纂・大阪 宝文書屋 ・明13年2冊・行徳貫
2. 『書画落款自在 巻上、中、下」
行徳玉江編・森琴石出版・明治13年3冊
3. 「纂評謝選拾遺 : 集註 5冊」
頼山陽編(1780-1832)・行徳貫(玉江)評 ・行徳敬(敬二郎)註・大阪 同盟書房・明16年3月
4. 「金城遺稿 1冊」
鼎金城著・行徳玉江編・明治20年
5. 日本名勝詩選 3冊」
行徳貫・青木嵩山堂・明治32年12月=京都大学附属図書館所蔵「谷村文庫」からご覧ください。
(六)「青湾茗えん図誌 四冊<瑞・羊・魁・全>」より

(編者:山中吉良兵衛・出版人:田澤静雲・北畑茂兵衛・鳩居堂・浅井吉兵衛・鹿田静七・刊行:明治9年1月11日)
第十三席の会主補助を務める。第十三席会主は下記記述の「堀井玩仙」。
(七)「私立画学校設置伺書」提出

明治18年2月7日付、大阪市学務委員山口幸七宛・校主兼教員=行徳玉江・教科書に「介子園画伝」・「絵事発微」・「国朝画微録」・「桐陰論画」・「落款自在」・「自画題譜」を使用するなど書かれている。

ー池田市林田良平氏蔵本(昭和』53年・複製)より=大阪府立中之島図書館ー
林田良平氏は、自身の蒐集資料を「池田市立歴史資料館」に多数寄贈(「平成17年11月 ■2番目 注2」に記述)

(八)弟子に梅上雅子(号玉梅)・佐野岱石(行徳玉江歿後、森琴石門下となる)など
 

鼎金城門下

桑田墨荘(くわた ぼくそう)

桑田文輔墨荘と號ス 大阪府東區船越町ニ住ス 桑田秀橘(號樂山)ノ男ナリ 畫ヲ金子美翁號雪操ニ學 ヒ 師歿スルニ後鼎金城ニ從ヒ 周防安藝備前駿河横濱等ヲ遊歴ス

―「内国絵画共進会出品人略譜」(農商務省版・国文社刊・明治17年5月)」より―

画家系譜・関連資料:「千瓢賞餘(大阪府)」に名あり

鼎金城門下

塚村暘谷(つかむら ようこく)

塚村暘谷
備前國岡山區ニ住ス
塚村太郎ノ男ニシテ天保九年正月十五日生ナリ
幼ヨリ書事ヲ好ミ文久二年ヨリ鼎金城ノ門ニ入リ
後沙門鐵翁ニ随ヒ 山陽南海西海北陸山陰信濃上野下野東京等ヲ遊歴ス

ー「内国絵画共進会出品人略譜」(農商務省版・国文社刊・明治17年5月)よりー

鼎金城門下

浜名白塢(はまな はくう)=濱名白塢



●鼎金城の門下、又廣瀬旭荘の咸宜園での門下生=行徳玉江、西島青浦と同じ
●森琴石編「名家画帖」に揮毫
●伝記の詳細は不明
●国立国会図書館 OPAC検索での表示は「浜名白塢 はまなはくお」とあるが、当HPでは当面「はまな はくう」とします。今後の調査で変更もあり得ます。



(一)『廣瀬家一門の光彩 -淡窓先生を中心として』 より

大分県日田郡教育会編発行/昭和9年12月/第48~49頁

廣瀬旭荘の咸宜園継承及異郷垂帷の間に於ける門弟の数は千数百人に上った如くである。

 咸宜園継承時代は入門簿があり、異郷推帷時代については嘉永6年(46歳)3月16日日記に
   「余門人数百千人」の語があり、「九桂草堂随筆」(49歳の作)巻10に
   「淡窓公前後入門の弟子三千に近し、余も又千人に近し」とあり、
 又文久3年(57歳の歿年)5月晦日の日記に「浪華僧医画人就余間学者前後数百人」の語もある。
教育の功亦大なるものがあったと言わねばならない。

其の内最も世に名ある者は、

柴秋村(後 青邨、林外にも学ぶ)、長三洲(もと淡窓の門弟である)、棚橋大作、西島青浦、藤井藍田、鼎金城行徳玉江、笠徹雲、笠龍譚、濱名白塢、石田緑塢、今北洪川、尾崎秀眠、榎本驢斎、種子島石峰、劉石舟(淡窓門弟にも名あり)、光吉文龍、坪井信良、松林飯山、亀谷省軒(淡窓門弟にも名あり)等(出身名士の正確なる訓査は困難で、或は誤謬や落洩が多かろう。後日の研究を期す)である。

※原文のカタカナ部分を平仮名に、一部旧漢字を当用漢字に置き換えました。
 青色文字氏名者は、この項目中にあります。


(二)『新撰 大人名辞典』 (下中弥三郎編、発行/昭和12年7月) より


カナエキンジョー 鼎金城(1471-1523)
徳川末期の南画家。文化8年生る。名は鉉、字は子玉、別に澱水・受采堂と号した。通称平作。大阪の人。
鼎春岳の子。幼にして父を喪い、長じて画法を岡田半江に学び、また金子雪操に質して、遂に一家を成した。半江その画を賞して、「鼎氏子あり春岳瞑すべし」といったという。時に田能村小虎(直入)と名を斎しうした。
また詩を廣瀬旭荘に学び、『金城遺稿』がある。文久3年5月晦日歿。年53.上福島妙法寺に葬る。
門下から行徳玉江、濱名白塢、森琴石、西島青浦らが出た。

本来「鼎金城」の伝記に挿入すべきですが、HP作成の都合上「浜名白塢(二)」で取り上げました。
原文のカタカナ部分を平仮名に、一部旧漢字を当用漢字に、数字もアラビア数字に置き換えました。


(三)著書


『歴代名家題画小舫』
    浜名白塢編/柳原喜兵衛出版/明治12年8月/巻1-3、付録合本)=国立国会図書館NDL-OPAC


(四)掲載書誌・・・・・・・当HP記述ヶ所で示します


★垣貫一右衛門編『浪華の魁』(垣貫與祐/明治15年1月)
有名諸大家  南画 濱名白塢―今橋五丁目

当HP=「関連資料:大阪の有名諸大家」 (一)『浪華の魁』 南画 濱名白塢:今橋五丁目

★石橋教著『雲来吟交詩』(前川善兵衛/明治13年4月
第一集  浪華―濱名白塢
当HP=「雅友・知友:石橋雲来」
(三)<石橋雲来 漢詩集> 掲載人名 1:「雲来吟交詩」第一集  浪華―濱名白塢

★森琴石編「名家画帖」(小野木市兵衛/明治13年3月・他に吉岡平助刊もあり) NO26 に揮毫

当HP=「平成21年8月 注1 名家画帖

★伴源平著「大阪名所独案内 下」(柳原喜兵衛出版/明治15年3月/響泉堂刻)
◎ 漢学及詩文書  詩書画:今橋五 濱名白塢

★「廣瀬旭荘(二)主な門下生、濱名驢斎 で名あり。
出典資料名は廣瀬旭荘(一)年表 使用文献 をご覧下さい。

鼎金城門下

堀井頑仙(ほりい がんせん)

(一)

堀井佐七頑仙ト號ス
大坂府南區順慶町ニ住ス
父堀井佐七ノ名ヲ襲ク
天保二年三月廾七日生ナリ
畫ヲ鼎平作(號金城)ニ學ヒ
伊勢伊豫其他ヲ遊歴シ■指頭畫ヲ作ル

ー「内国絵画共進会出品人略譜」(農商務省版・国文社刊・明治17年5月)より
(二)書誌掲載箇所

1. 「浪華の魁」(垣貫一右衛門編纂・垣貫與祐出版・明治十五年一月十九日)より
〇翰墨賞古諸派
 堀井玩仙―順慶町四丁目
2. 「青湾茗えん図誌 四冊<瑞・羊・魁・全>」より
(編者:山中吉良兵衛・出版人:田澤静雲・北畑茂兵衛・鳩居堂・浅井吉兵衛・鹿田静七・刊行:明治9年1月11日)
 第十三席の会主を務める。会主補助は上記記述の「行徳玉江」
3. 藤本鉄石十七回忌追悼茶筵図録
『藤本鉄石先生薦場余録」(原田隆造編・明治12年5月刊)より
席上揮毫者名に「森琴石」などと共に名を連ねている。
4. 井原後月人物誌」(昭和57年)
関連資料「井原後月人物誌」より、「笠原彌代吉」の中に名前が出ます
5. 中野 理「ポンペと中野雪江」より
「医家芸術」C) 第12巻第12号 通巻135(編集兼発行者=東龍太郎・発行所=日本医家芸術クラブ・昭和43年12月1日発行)
関連資料「ポンペと中野雪江」よりに、中野雪江の交流者に名前があります
6. 中野 理「胡鉄梅と中野雪江」より
「歴史と神戸」第9巻第2号(昭和45年4月)に、中野雪江の交流者に名前があります


鼎金城門下

西嶋青浦(にしじま せいほ)=西島青浦



●関連事項=「平成19年7月(後日)」・師匠.先輩-儒学:「廣瀬旭荘」「長三洲」・南画:「鼎金城
廣瀬淡窓門下で、長三洲と同様廣瀬旭荘に見込まれ大阪に出る。鼎金城に画を学ぶ傍ら、長三洲と共に廣瀬旭荘に代わり、国事を側面から強力に補佐し、また廣瀬旭荘の臨終を看取った。
●行徳玉江とは同年齢、森琴石より15歳年上で、いずれも鼎金城門下である。


(一)
西嶋青浦 (1828年-1912年)
豊浦郡宇賀本郷(豊浦町)に生れる。画家。通称孫吉。名は譲。字は子礼。

詩書を広瀬淡荘門(咸宜園)で学び、画法を大阪の鼎金城に問い、一格を成す。

維新の際には高杉晋作木戸孝允らと国事に周旋し、特に下関の志士白石正一郎と交友があった。

明治に入り、東京に出て木戸邸に住み、画事を楽しんだ。

明治45年(1912)3月10日歿す。85歳。
☆明治31年刊行『書画名器古今評伝』の編纂を行っている。

☆青浦の叔父古屋道庵医者で、寺小屋を経営していた。

白石正一郎 (1813ー1880)
豪商(廻船問屋)・清末藩の御用商人として知られた。
鈴木重胤について国学を学び、尊皇攘夷の立場を明確にして志士の運動を援助した。
高杉晋作の奇兵隊に参加。薩長連合を陰で推進したといわれる。後年は赤間関神宮宮司。

伝記ご提供=山口県環境生活部文化振興課


(二)補足

A『九桂草堂随筆 -広瀬旭荘(文敏先生)の肖像と讃-』(広瀬旭草著・広瀬恒太刊・昭和45年3月)

冒頭図版頁には、明治22年7月、西島青浦が描いた廣瀬旭荘の肖像画と共に、長三洲の画賛が添えられている。肖像画を描いた西浦青浦の人物略伝が添えられ、次頁には廣瀬旭荘が最晩年に過ごした池田(現大阪府池田市)や、旭荘の支援者でもある門生「林田炭翁」の子息「林田良平」についての記述がある。下は図版一頁目の画像と文章。


―廣瀬旭荘肖像と賛―


 図版上部:長三洲画賛

図版上部:長三洲画賛

図版右の文章

この画像を描いた「西浦青浦文貞」という人は、長州西豊浦郡宇賀の人。

天保十四癸卯四月朔日、古屋秀平紹介、西島孫吉十六歳で日田の咸宜園へ入門している。人物辞書によれば、「画家・長州の人・少壮笈を負うて九州に遊び後また浪花に出でて画法を鼎金城に受け、自ら一格を成して頗る逸韻あり、幕末馬関に在りて高杉晋作木戸孝允井上馨山県有朋等の知遇を受け共に国家に周旋するところあり。維新後は専ら木戸の邸に寓し、画事を以て老を楽めり。明治四十五年三月十日没す、年八十五」とある。

嘉永五年秋、旭荘に随行して長谷川盤谷の観らん(さんずい+蘭)亭に遊び数日滞在した事があり、墓所邦福寺の線香立も行徳玉江と両人で寄進した謂れもあって、旭荘をよく知った門人である。

又画賛はこの随筆( 九桂草堂随筆)を筆録した長三洲≪光太郎・ひかる(草冠+火)≫で、咸宜園に学び招かれて浪花へ赴き、後に明治三大書家として名をなしただけに見事な隷書体で書かれている。

図版下部:西嶋青浦画(明治22年7月)「廣瀬旭荘肖像図」

『九桂草堂随筆』=長三洲筆録/広瀬孝之助(林外)校正/全10巻

廣瀬旭荘の大坂での最後の塾となった、伏見町の「九桂草堂」で廣瀬旭荘が語った事を、長三洲が筆記した長編の随筆。長男の林外(淡窓の養子となる)が校正したものを、後年子孫の「廣瀬恒太氏」により刊行されたもの。

ご協力者=廣瀬貞雄氏(廣瀬恒太氏孫・廣瀬家第11代当主・大分県日田市廣瀬資料館社長)



B:『緒方洪庵と適塾生 ―「日間瑣事備忘録」にみえる―』(梅溪 昇著/思文閣出版/昭和59年)

<安政元年十二月二十一日
西島馬子吉来見日、某欲学医故来此地  (馬子吉=孫吉)>

右の二十一日に旭荘のもとを訪れた西島馬子吉とは何人であろうか。今詳らかでない。


上記日付(安政元年12月21日)の6日後、安政元年12月27日、旭荘は伏見町に、大坂で6度目となる塾宅に転居した。塾宅は名付けて「九桂草堂」という。庭に9本の桂の樹が植わっている事から名付けられた。森琴石の自宅の近隣である。馬子吉(青浦)長三洲に先がけて大坂に出てきたようだ。この頃広瀬旭荘は、<光太郎の一刻も早い来坂を請う>と、日田の「廣瀬青村」宛に、しきりと長三洲(光太郎)来坂の催促の書簡を出している(「廣瀬淡窓旭荘書翰集」)。


(三)著書及び掲載書誌

1:「書画名器古今評伝」(西島青浦,高森有造編/岩本忠蔵出版/ 明治31年)

2:「明治三十八家絶句 上中下」(擁万堂編 ようまんどう編/文政堂他/明4年

中巻-伊勢小淞先生‐の項2首中に西島青浦の記載あり


(四)書簡

長 三洲 ⇒ 西島青浦 宛

「東京都立中央図書館 特別文庫室:渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫」所蔵
 [渡1041] ・・・・長三洲(光)→青浦〔西島青浦


鼎金城の父

鼎春嶽(かなえ しゅんがく)


●鼎春嶽は鼎金城(森琴石の画の師)の父
●関連事項:最新情報「平成17年2月
●鼎春嶽の門下=田 黄山
●鼎春嶽の師匠や、門下などは調査中です

(一)春嶽

鼎氏 名ハ新 字ハ世宝 春嶽ト号ス 大坂丿人ナリ 天満ニ住ス
初メ福原五岳ヲ師トシ 画法ヲ修學シテ 後チ當時丿諸名家ニ出入シテ益々研究ス
亦書ヲモ能セリ 文化八年歿ス 四十六歳

  黄山
  田氏 名光春 春岳丿門人 大坂天満ニ住ス 酒店丿主人ナリ 人物ヲ巧ニ画ケリ


―「扶桑画人伝」(古筆了仲著・東京阪昌員出版・明治21年)より―


(二)鼎春岳

鼎春嶽は大坂天満の人なり、名は元新、字は世寶、太郎右衛門と稱す、博淵の男なり、

始め畫を福原五岳に學び、後収蔵家の秘冊を探り 戸を閉て模寫し殆ど寝食を忘る

遂に諸家に出入して一家をなす

田能村竹田嘗て春岳を見て眞に篤古の士と稱す、

畫名頗る高し、筆情繊勁にして妙味あり、

文化八年歳四十六にして歿す、

門人に黄山有り、人物を善くせり。       上記(一)の黄山の事


―「南画と書道」(八木奘三郎著・東京博文館・明治43年)より―



(三)

「絵農書 二」 解題 より

(日本農書全集第72巻/社団法人 農山漁村文化協会発行/199年)

鼎春嶽筆 農耕屏風 (P58)    山本秀夫


・作品について

 六曲一双・紙本淡彩で、大きさは、右・左隻各縦十七五センチ、横三百六十センチである。製作者は鼎春嶽かなえしゅんがく、製作年代は寛政十(一七九八)である。屏風の形式は、一二面 に一枚ずつの絵を貼り付けいく「押絵貼形式」をとっており、もみ浸しから蔵入れまでの農作業の過程とともに、農村の生活文化の一端が描かれている。
 農耕屏風は、右隻第一扇から左隻第一扇へ(あるいはその逆もある)と順番に農作業の過程が描かれる。本屏風で問題としたいのは、右隻の順番であり、農作業の描写 と落款の位置から、第一扇→第三扇→第五扇→第六扇→第ニ扇→第四扇となることが指摘できる。
このことは、「押絵貼形式」の屏風における作者(絵師)と表具師の関係を示唆するもので 、つまり、作者の春嶽が描いた一二枚の絵のうち六枚が表具師によってまちがって貼られたと考えられる。
なお、この屏風は香川県三豊郡高瀬町の旧家にあったもので、平成三年に瀬戸内海歴史民族資料館に収蔵された。

・作者について

作者の鼎春嶽(春岳)は、名は元新、字は世宝、号は春嶽、俗称は太郎右衛門であり、 明和三(一七六六)年に生まれ、文化八(一八一一)年に没した大坂の人である。
住居は天満金屋橋、墓所はいまの北区專念寺にある。福原五岳を師とあおいだが、のちには諸家の画法を研究し、何年も家に引きこもって諸家の秘蔵の書画を写 したといわれている。なお、後述するように木村蒹霞堂とも交流がある。また、書家としても知られている。
田能村竹田が『竹田荘師画友録』の中で、春嶽のところを訪問し談じみて、諸家所蔵の 流伝の真偽を明らかにできるほどの能力の者と評価しているほどである。
近世の大坂画壇の諸家系図では、南画系に属し、息子の鼎金城も画家になっている。
ただ、作品としては、現在のところ、「煙霞山水図」(大阪市立博物館所蔵)や「郭子儀図」(東京国立博物館所蔵)が知られているぐらいであり、しかもこれらはそれぞれ一幅の絵である。春嶽は、文人(知識人)の画家として、掛軸をよく描いている。先記のように 屏風の各扇に落款があるのは、掛軸を描き慣れた文人画家の特色ともいえる。
なお、文人画家には、漢画をよくする人と、身近な生活を描こうとする人がいるが、春嶽は後者のタイプである。



・内容と特徴
(1)
浸種(右隻一扇)
種もみの容器は、中国の耕織図ではかごであるのに対して、この屏風では「わらずと」のようなもみ俵でつけている。しかも、他の農耕図では、もみ俵を渡す人が必ずといってもいいほど描かれているが、ここでは作業する人のみが描かれている。
(2)
種まき(右隻三扇)
苗代田にもみをまく場面であり、わらじを脱いでいる場面 も描かれている。種かごは、手提げ付きかごではなく、抱えるかごとなっている。なお、この扇の上方には、もみまきの終わった苗代田に、神社からいただいてきた、苗の生育を田の神に祈るための「牛王の札」が立てられている。
(3)
耕起(右隻五扇)
耕起は、二人が鍬によって行っている。その下方の田では、犂(唐犂・牛犂)による牛耕が描かれている。まず、牛についてであるが、口かごはあるが、口取りがないので、雌牛であろう。次に犂については、鞭を持たずに、手綱を右手で、犂の把手を左手で操作していることで、左反転の長床犂による日本的な耕起であることがわかる。
(4)
代かき・苗運び・田植え(右隻六扇)
代かきをする男は傘とみのをつけ、右手で馬を操り、左手で馬鍬を操作しており、馬の前足の動きや頭の傾き具合など、細かく正確な描写 が見られる。苗運びは、傘とみのをつけ、わらじを履いた男が、浅くて網目が粗い苗かごに苗を入れ、ひもで天びん棒に吊るして運んでいるが、この場面 ではそれをあぜに置こうとしている。早乙女たちは田植えの真っ最中である。
(5)
肥運びと潅水(右隻二扇)
追肥は、日本の施肥の実態を表している。あぜに小便桶を置いてひしゃくで追肥する場面 が一般的であるが、このニ扇では、糞尿を運んでいる様子が」描かれている。「はねつるべ」も描かれている。なお、この上部には、ニ羽の鳥を飛ばしている。この季節の絵ではふつうつばめであるが、しらさぎを飛ばしている。
(6)
草取り(右隻四扇)
上方の田の中で三人が草取りをしている。手前の田で、腰を上げた、ほおかむりをした男が左手に持っているのは、鎌か雁爪であろう。そんな中、昼飯を運ぶ母子の姿が見える。 (7) 田の見回りと鳴子(左隻一扇)
(7)
田の見回りと鳴子(左隻一扇)
自分の田稲穂のようすを鍬を担いで見に来ており、鳴子と雁も描かれている。
(8)
稲刈りと稲運び(左隻ニ扇)
鎌で刈る人の腰にはたばこ入れも見え、体重をかけ稲束を押さえ縛るようすはリアルである。 稲運びは、馬とともに自分でも運んでいる。馬の首の傾き具合や前足の蹴りのようすなど、実際のスケッチともとれる描写 である。
(9)
稲架掛け(左隻三扇)
立木に稲を干すのではなく、田に四段ぐらいの叉木を使った稲架を作っている。なお、このころは秋も深まっており、家々のまわりの柿の実がたわわに実っている描写 も忘れていない。
(10)
脱穀(左隻四扇)
二台の千歯扱きを男性一名と女性二名で使っている。ただ、千歯扱きの歯の間隔が広すぎて、これでは扱げそうにもない。一方、もみ打ちは、三人が唐竿で行なっている。その唐竿は「一本垂下型」のもので、竹竿の先から細縄を垂れ、その先に堅木の一本棒を垂れただけのものである。
(11)
もみすりと唐箕選(左隻五扇)
土臼によるもみすりが描かれている。回し手(やり木)を軒先に吊るして、男性二名で押し引きし、女性二名が補助している。一方、選別 は唐箕で行われる。取り出し口が二つあること、漏斗部が三角形、起風胴部が円形、選別 部が四角形という「大坂京屋製」であることなどから西日本型の唐箕であることがわかる。なお、奥には選別 用具の万石とおしが描かれ、庭にはもみや玄米をついばみにきた鶏を追う子供たちと子守の姿が描かれている。
(12)
俵詰めと蔵入れ(左隻六扇)
むしろを広げ、画面の右から左へと作業が進む。漏斗を遣って俵に詰める二人、足をかけたり、手を回したりして俵締めをする二人がいる。蔵入れは、俵を担いで瓦葺きの土蔵(この蔵は大坂周辺に多く、上部は漆喰塗りの白壁で下部に板が使われている構造のもの)に収める日本独特の作業である。中国の耕織図では、ふたのない大かごに入れて天びん棒で振り分け、板壁の蔵の前にばら積みにする画面 となる。なお、老婆のわら仕事も忘れず描かれている。



・製作の背景
左隻六扇の左下隅にある「戌午仲春日写 春岳」という文字に注目して、この屏風の 製作の背景について指摘しておきたい。
「戌午仲春日」は、屏風の製作年代つまり寛政十(一七九八)年を表している。
寛政十年」という年は、先記した春嶽と木村蒹葭堂との交流の中で大きな意味をもつ。
木村蒹葭堂(一七三〇~一八〇二)は、諸方の文人好事の士が争って来訪した、当代随一の 本草学・文学・書画・詩文などに通じた文化人であり、池大雅・岡田米山人・田能村竹田・ 浦上玉堂らとの親交を通じ、初期文人画家の育成に指導的役割を果たした人である。
この人の存在は、当然、春嶽にとっても大きかったと思われる。『木村蒹葭堂日記』によると、寛政五(一七九三)年から享和元(一八〇一)年の八年間で、二五回会い、そのうち 二回は蒹葭堂の訪問を受けている。とくに、屏風作成時の寛政十年までは足繁く通 っており、このころは、春嶽にとって、農村の生活風俗・農作業などに関する知識を得る絶好の 機会ではなかったかと思われる。また、翌年の寛政十一年一月には、蒹葭堂が『日本山海 名産図会』を作り上げている。春嶽自身が大坂の農村を回って得た情報も、もしかすると 『日本山海名産図会』の内容に反映されているかもしれない。
また、屏風に描かれた風景については、上記のことおよび唐箕の型、蔵の構造などから、 関西以西のものと推定できる。なお、そのような性格をもった農耕屏風が、香川県の旧家 に伝来していたことの意味も重要であると考えている。

◆参考文献 大阪市立美術館図録『近世の大坂画壇』 一九八一年/ 冷泉為人・河野通 明・岩崎竹彦・並木誠士『瑞穂の国・日本―四季耕作図の世界』淡交社 一九九六年/ 拙稿「民族的視野に立っての『四季耕作図屏風』の考察」(『瀬戸内海歴史民族資料館紀要』第九号)一九九六年



◆山本秀夫氏=瀬戸内海歴史民族資料館専門職員(現在香川県立文書館・古文書・行政資料係長)


鼎春嶽の師匠

福原 五岳(ふくはら ごがく)  享保15-寛政11(1730~99)

●鼎春嶽の画の師匠・森琴石はひ孫弟子に当る
●森琴石のメモ書き、控え帖には名が良く出る


福原 五岳(ふくはら ごがく)享保15-寛政11(1730~99)

 名は元素、字は子絢。号は五岳・玉峰・楽聖堂。備後の人で京都に出で、池大雅に南画を学び書にも通 じ、後に大阪に移って同地に大雅風を広めた。鼎春嶽(かなえしゅんがく 1768-1811)はその弟子である。この五岳を称するものに、古竹と号する豊後の専念寺の僧がいて、独学で南画をよくした。俗姓をつけて平野五岳(1811-93)とよばれている。

「日本美術辞典」(野間清六、谷信一編・東京堂・昭和27年)による


忍頂寺静村(にんちょうじ せいそん) =忍頂寺梅谷(にんちょうじ ばいこく)

●鼎金城(かなえ きんじょう)歿後の師匠
●儒学の師匠「妻鹿友樵」の画の師匠
●忍頂寺静村門下=米津菱江・森琴石・石尾松泉
●忍頂寺静村の出生地淡路島では、忍頂寺梅谷の呼ばれ方が通常である
●忍頂寺静村やその師匠、門下については目下調査中

(一)
忍頂寺静村  にんちょうじ せいそん

文化2年(1805)~明治10年(1877)。幕末・明治の画家。名は温、字は知新または寿甫、通称寿一。梅谷・静村と号した。

忍頂寺家はもと摂津国忍頂寺村(大阪府茨木市)の出で、近世前期に淡路国志筑村(津名町)に移り、代々名家として聞こえた。邸内の十三重石塔や先祖の墓は、今菩提寺の引摂寺*にある。

静村ははじめ梅谷と号し、諸国を歴遊、淡州を訪れ忍頂寺家に入ったと伝える。

四条派の上田公長に写生画を、また田能村竹田・貫名海屋(菘翁 すうおう)に南画を学んだ。

大阪の堂島に住み、山水・人物・花鳥のすべてに巧みで、模写を得意とし、画壇の長老とあがめられた。大坂や故郷淡路には遺作が多い。

明治10年11月16日に没し、難波の瑞龍寺(鉄眼寺)に葬られた。小原竹香撰墓碑銘は享年74歳と記されている。清元研究家忍頂寺務(1885~1951)は一族である。 /水田紀久

―「兵庫県大百科事典 下巻」(神戸新聞出版センター・昭和58年10月1日)― より

◆資料ご提供者=清水清氏(兵庫県淡路市=平成10年にご提供頂きました)

◆ご協力者=水田紀久氏(木村蒹葭堂顕彰会代表・文学博士)



(二)
忍頂寺静村墓碑銘

忍頂寺静村墓    難波元町  瑞龍寺

〔静村翁之墓〕  忍頂寺家

翁諱温。字壽甫。姓忍頂寺。號静村(邨)。淡州人也。
幼嗜畫。始入上田公長門。専學寫生。後竹田海屋兩先生指授深得南宗正旨。
山水人物(令+羽)毛花卉。皆入神品。海内目以老畫師矣。
明治十年十一月十六日以病没于家。享年七十有四。
葬于難波瑞龍寺。其社友相謀建碑。使余銘之。
余嘗有贈翁詩。勒以代銘離。

 宋元募去及明清。粉本如山積城。
 老後初開正法眼。凌來捧雨喝雷聲。
    竹香小原正棟撰  海石村田壽書丹
榎本源輔鐫



―「大阪訪碑録(浪速叢書 第十)」 
〔船越政一郎編纂編纂校正・浪速叢書刊行会発行・昭和4年5月10日〕 より―

◆資料ご提供者=水田紀久氏(木村蒹葭堂顕彰会代表・文学博士)

◆忍頂寺家では昭和52年、墓碑を再建されたと思われ、忍頂寺姓二氏の建立者名が記されている。



(三)
忍頂寺梅谷 (にんちょうじ ばいこく)

現代日本の南画界の第一人者、直原玉青は、多くの貴重な美術所蔵品を、洲本市文化資料館に寄贈された。その中に忍頂寺梅谷の「群禽百態図」がある。箱書が、玉青の師に当たる矢野喬村であることから、梅谷が相当高い評価を受けた作家であることが分かる。

またこの中に漢文でつづった森琴石の一文が、同封されている。琴石は天保十四年有馬で出生した画家で、梅谷の門人である。のち関西南画界を代表する画家にまでなった。

その意は、彼の絵は、筆力優れ静深清雅神韻がただよい落款はないが、臨池子の印があるので、先生の真蹟であるという証明と、別に梅谷の略伝が記されている。これを要約すると左のようになる。

「先生は姓忍頂寺、名は温(つつむ)字を寿夫といった。はじめ号を梅谷、のち静村と改めた。別 に見山子、臨池子の号があり、通称寿平といった。淡路国静村の人ゆえ故その号を用いたのである。(註、楳谷を使ったときもある)門閥に生れ、性風雅に富みはじめ画を小田海僊および上田公長に学んだ。公長がいうには、お前は用筆非凡で、すこぶる逸韻の気に富む。文画を学びなさい。文画はいま田能村竹田という人がいる。竹田は六法に精通 している。この人を研究すれば堂奥に達することは易いことだ。先生はここで深く感じ、専心竹田を究め、山水、花卉、禽獣他ここごとく精妙の域に達し、一家を為した。また貫名菘翁とも交わり、得るところが多かった。先生は人となり温籍沈黙、名利を省みず、世俗を脱して入神の妙の域に達していた。明治十年一月十日病没、年七十三」


梅谷についての、新見貫次の淡路書画人物伝(淡交会雑誌)は、この森琴石の文を柱に構成されているが、これにより若干補足をする。

梅谷は志筑の大庄屋、忍頂寺の別家に当たり、酒造を業としていた。梅谷は病身で家業を弟七五郎に譲り、父とともに大阪で住んだ。師とした上田公長の門人には、浦川公左があり、『淡路名所図絵』の絵を書(ママ)いた人である。梅谷は池大雅、野呂介石を慕い、その絵を模写 した。また明、唐時代の画論を学び、その画風を慕って模写した。これを臨模といい、この絵が多く残っていて、「誰々のを写 す」と書いてある。これは絵の真髄を極める一手段であったともいえる。

梅谷の画境はのち進んで一家をなした。門人に語っていうには「余の絵は俗人に見せるものではなく、名利を得るためのものでもない・・・。」と。南画に秀で、また画の鑑定でも一家をなしたという。梅谷が大阪画壇で重きをなした様子を示す文献を列記すれば次のようになる。

「浪華名流」 弘化二年(一八四五)三宅子幹編の画家の部に、九人の浪華画檀の一人として、楳谷の号であげられている。同書は、浪華の著名人名録ともいうものであった。梅谷四十二歳のときである。

「浪華當時人名録」 嘉永元年(一八四八)梅谷の号で出、堂ジマ 名温 字知新 称寿一 とある。

「浪華風流月旦評名橋長短記録」 嘉永六年(一八五三)東文堂蔵版、月旦評とは批評のこと、浪華の当時の人物を評価し、これを浪華八百八橋にたとえ、橋の長短によって表現したものである。この中に画人梅谷があり、画家としては田能村竹田の真原小虎を頂点として、10人の中に収められている。

「浪華名流記」 安政三年(一八五六)聯珠堂版 三宅子幹編 前記のほかに文化乙丑生淡路人の記述で載せられている。

「浪華頡芳譜 なにわきっぽうふ 」安政四年(一八五七)にも画人として掲載されている。

以上をもってしても、梅谷が大阪において南画家として、高い評価を得ていたことが分かる。梅谷の墓は、大阪瑞龍寺にある。

梅谷は浪華名流には楳谷、人名録には梅谷、頡芳譜には静村の号で記されているが、晩年には静村民、臨池人(子)の号を用い、年とともに画号を変えていった。

静村はいまの志筑、臨池というのは現在の志筑三宅谷池のほとりに臨池庵という忍頂寺家にゆかりの庵があったのに由来するものであった。

参考文献
淡路文化史料館森琴石の梅谷略伝及浪華名流記ほか冊子・新見寅次淡路書画人物伝


 注:浪華頡芳譜 の 頡(きつ)は 原本では「手へん+頡」



―【「津名町史 本編」-<第一章:津名町の文化・六絵画>】 より― 

◆【「津名町史 本編」-<第一章:津名町の文化・六絵画>】 =津名町史編集委員会編発行・発昭和63年7月31日

◆資料ご提供者=津名町教育委員会

・・・・・つづく・・・・・・


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