森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 関係人物紹介

森琴石の師匠や先輩・友人知人など、また琴石の周辺の人物を紹介します


雅友・知友   う  

【項目】        や、ら、わ

項目内で使用度の多い資料について(各項目で、書名・資料名のみにする場合があります)

◆「浪華摘英」(浪華摘英編纂事務所・三島聰恵発行・大正4年8月)、「続浪華摘英」(発行兼編纂三島聴恵・大正5年12月)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供頂きました
◆「大阪人物辞典」=三善貞司著・清文堂刊・平成12年
◆森琴石日記
(明治42年8/3 ~10/7、明治45年2/15~7/31、大正元年8/1~10/5 間での断片的に残るもの。翻刻者=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)

あ項

吾妻 健三郎(あずま けんざぶろう)

●関連事項=「平成19年2月【1】」・「平成18年8月【3】」・関連資料「絵画叢誌 記事


(一)
『米沢市史資料 第12号 続米澤人国記 』(米沢市史編さん委員会・昭和58年)
 -「吾妻健三郎」の項 (執筆者 松野良寅氏)-  より

吾妻健三郎  安政3~明治45(1856~1913)

米沢藩外様外科医吾妻寿庵の三男として生まれ、明治6年1月17歳の時、独学修業を志し上京した。

東京に出た健三郎は、当事大学東校に勤めていた海瀬敏行(陸軍二等軍医伯父の蘭学の弟子)が、学資の援助を申し出てくれたのも断り、学資が尽きると上州の片田舎の寺に身を寄せ、小金を蓄えて再度上京、当事海軍兵学校の生徒であった馬場新八(造船少佐)の薦めで、兵学校を受験する。

健三郎は英語の成績が悪く失敗するが、湯島天神下の錦袋園という薬舗に奉公、次いで、ある漢方医の書生となった。その間共慣義塾に入り勉学するが、数学が非常に得意であったので、この塾では数学の教鞭を執り、他の学科を履修している。

その後、製作学教場(工業学校の前身)に入り、ドイツ人 G.ワグネル に師事し工作学を習った。この教場では、履修を免除された数学の時間を石版研究に充て、元素化合表を石版で印刷し、大学南校の学生に分与したりしているが、健三郎の石版印刷成功の第一歩であった。

その頃、オーストリア博覧会から帰国し、「農事図解」を翻刻しようとしていた農商務省役人田中芳男(男爵・貴族院議員)の依頼をうけ、これを成功させ、更に研究を進めて、日本画の石版印刷や、香水・香油等のレッテルの印刷もできるようになった。

以後、健三郎の研究成果は三色刷りの印刷成功につながり、香水・香油・醤油等の各種レッテルの注文が殺到し、健三郎は印刷業界において次第に重きをなし、明治14年には、工芸品共進会の審査員に推挙されている。

明治11年に設立された帝国地質調査所から、技師長 E・ナウマンが作成した日本全図の印刷を依頼されるが、健三郎は明治14年2月から8月までの間に印刷を完成、これをオーストリアの博覧会に出品して賞牌を受けている。

着実に実績を積み上げ、大いに名声があがった健三郎は、広く各種印刷の委託を受けるようになり、神田駿河台袋町に東陽堂を設立する。

毛筆画が小学校で行われるようになったのは、明治17年頃である。その頃健三郎は東洋絵画会を主宰し、機関雑誌として「絵画叢誌」を発刊、美術出版社としての基盤を固めていたが、東陽堂は、さながら常設の博覧会場の観を呈していた、という。

又、「出羽新聞」に掲載された磐梯山噴火見聞記で、同郷人の渡部又太郎(大橋乙羽)を認め、東陽堂入社を薦め、やがて渡部を迎えた東陽堂は、「風俗画報」第一号を、明治22年2月に発刊した。

これは、日本古今の風俗を絵にして解説を加えたばかりでなく、各地の風物習慣を紹介して、日本における画報の嚆矢となった。

日清戦争が起こると、「日清戦争図会」を臨時増刊として発行、大好評を博して第10篇にも及んだ。続いて「台湾征討図会」を続刊、明治29年には、「大海嘯被害録」として三陸の大海嘯の詳報を臨時増刊するなど、時宜を得た刊行で、吾妻の東陽堂の名声は一躍あがった。

吾妻は月刊画報のほか、石版印刷を駆使して、書画関係の単行本も刊行しているが、印刷文化開拓の時代に刻苦精励、初志を見事に貫徹した、米沢人としては異色の実業人である。

健三郎は、司馬江漢の作品を多く珍蔵していたが、その千余点中より逸品を帝国博物館に寄贈している。

又、東陽堂の名を不滅にした「風俗画報」は、明治22年発刊以来大正5年に廃刊されるまで、517冊刊行されたが、昭和49年に全巻が復刻刊行されている。(松野 良寅)

★資料ご提供=山形県米沢市 市立米沢図書館 郷土資料室
★上記「吾妻健三郎 伝」は、執筆者松野良寅氏のご好意により、当HP掲載への許諾を頂きました。
上記伝記の無断転載は固く禁じられています。

(二)
森琴石 ~ 吾妻健三郎  宛 書簡

東京都立中央図書館 特別文庫室「渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫」

   [渡7898] 森琴石→吾妻健三郎 <1通(17.0×43.5)畳物>より

書簡 概要

   年月日  明治24年12月12日

内容概略
☆会費の徴収など森琴石が取りまとめているが、不在会員がいた為、第54、55、56の3号分の納入が遅れてしまった事へのお詫び。
☆会員26名分、八円十五銭分を為替にて三井銀行に納入した事。
☆岩崎・杲田(森琴石身内)・森 ※ の3氏が新規入会。
杲田氏=平成18年9月【3】 など。森は森泰石森半景の可能性あり
☆安川雪香が退会。 ・・・・・・・・・・・・・など

★資料ご提供=東京都立中央図書館特別文庫室
★所蔵情報及び略読解=成澤勝嗣氏(小磯良平美術館学芸係長)より、平成11年6月に情報を頂いていました。

(三)著書・出版書誌 

「掌中数学書 」( 吾妻健三郎/文玉堂/明8.1)1
「伊香保温泉略説 」( 吾妻健三郎<香雲楼主人>/吾妻健三郎,/明17.7)
「内国統計全書 」(吾妻健三郎/東陽堂/明17.2)
「伊香保温泉略説」(吾妻健三郎<香雲楼主人>/吾妻健三郎/明18.4)
「綜芸種智院式」(空海[他]/関右馬次/明18.12)
「観古帖 」(吾妻健三郎/吾妻健三郎/明19.5)
「新鈔西清古鑒 」(吾妻健三郎/東陽堂/明25.8)
「佩文斎耕織図 」(吾妻健三郎/東陽堂/明25.10)
「江戸年中行事図絵 」(吾妻健三郎/東陽堂/明26.11)
「江戸年中行事圖繪」(吾妻健三郎[他]/東陽堂/1893.12)
「白竜遺稿」( 菅原白竜[他]/東陽堂/明34.8)
「東海道名所図会 (全国名所図絵 第1編)」(吾妻健三郎/東陽堂/明35.4)
「集古十種 」(吾妻健三郎./東陽堂/明35-37)
「新撰月耕画鑑」( 吾妻健三郎/東陽堂/明37.6)          他多数あり

★紙面の都合により、国立国会図書館近代デジタルライブラリー検索分のみ掲載しました。

天岡均一(あまおか きんいち)

●関連事項=作品紹介「下絵:難波橋渡り初めの図」、「平成16年6月」、日誌・書簡「舩田舩岳の日記
●森琴石門下、東京美術学校卒の「舩田舩岳(ふなた せんがく)」の親交者。

「続浪華摘英」(発行兼編纂 三島聴恵・大正五年十二月刊)より


●先生名は均一、字は天眞、號をけいかい(ニイニイ蝉の意?)と呼ぶ
けいかい=けい(虫+恵)、かい(虫+有)
明治八年十月十四日を以て攝州三田藩地に生る 源六の長子なり
●幼より彫刻を好み 中學校を卒業するや更に進みて東京美術學校彫刻科に入學し
明治三十年七月業を了へ其翌年より和歌山縣下國寶修理に従事したり、
●同三十六年第5回内國勧業博覧會開設せらるゝや豊公馬乗像を出品して三等賞を得たり、
爾来天王寺眞法院町に住し
内國製産品評會に名誉銀牌を、叉戰捷記念鶴覧會に一等賞を、其他褒状を受けしこと枚擧に遑あらず、
●明治四十三年今上天皇陛下東宮に在しゝ頃、大阪偕行社員一同より獻上したる鋳銅製軍馬を謹製し
其後大正三年大元帥陛下三軍を摂河泉の野に督したまひ大阪城に御駐輦の日海陸の癈兵を製作して天覧に供し御買上の光榮を得、翌四年大阪市に於て難波架橋の事あるや之れが依嘱を受けライオンを作りて其四隅に置く掲ぐる所の作物即ち之なり(橋柱の文字は磯野惟秋の筆に係る)
●同五年一月廾三日露國ミハイロウイッチ大公浪華巡覧の際青銅製の巻煙草入一對に天平式花鳥模様を彫出せるものを獻上したり
●其他毎年文部省展覧會に出品して入選の光榮を有す
人と為り気宇快濶にして毫も物に擬滞せず衆皆之に服す
●嘗て友人田中祥雲と共に行く 偶夜中數十歩前に一人影を認む
先生曰く男なり祥雲曰く女なりと論戰□くる所を知らず
終に其眞相を確むべく拇戰の末直に馳せて人影に近き覚えず
「男だ」と叫びて行人に誰何され具に其由を告ぐ
行人茲に始めて先生なることを知り反って前の失言を謝したりしと、
●二女児あり長を正子と云ひ次を夏子と呼ぶ

(南区天王寺眞法院町5千六百九十二番地)

◆大阪偕行社、磯野惟秋(磯野秋渚・於兎介)=「平成17年8月 注2,5」・雅友・知友「大村楊城(交流者名)」に記述があります

い項

池田正信(いけだ まさのぶ)

(「池田正信」は、俗称の「池田富三郎」で呼ばれる事が多い)

「崑山片玉集」(井原市教育委員会明治百年記念刊行委員会編・井原市発行・昭和44年)より

●関連項目=最新情報「平成13年8月


◆広島県品治郡大橋村高田万蔵(号竹甫)の二男に生まれ、小田郡大江村(現井原市大江町)の池田丹治郎政履の養子となる。俗称富三郎、子篤または暁窓と号した。
◆池田家は地方に於ける豪族にて、一橋徳川領地里床並びに代官交際用掛りを仰せつけられた、酒、油 味噌等の醸造を営み一橋幕領の調味嗜好料御用達を勤めた。
◆正信は漢学を興譲館の阪谷朗廬に、弓術を吉田四郎に、音楽を東儀頼に、茶を千家宗匠千碌々斎に、和歌を竹柏園佐々木信綱に学び、諸芸に通じた。
◆殊に横笛の吹奏に秀でたばかりでなく、古楽雅楽を音取した、即ち苦心して作符したことは非凡なる奏楽者でなければなし遂げられぬことである、しかもその作符は広凡にわたっている、

即ち壱越調(いちこちょう)では

八破、颯踏、武徳楽、酒胡子、鳥急、廻杯楽、十天楽、承知楽・北亭楽、鳥破、賀殿楽、賀殿急、羅陵王破 、新羅陵王急、胡飯酒破、菩薩破、酒青司、壱団嬌(作符の音取表示は省略す)以下同じ

平調(ひょうぢょう)では

五常楽急、越天楽、皇(鹿の下 章)急、慶徳、陪臚、臨河、三台急

太食調(たあじいちょう)では

合歓宴、秡頭、長慶子、輸皷禅脱、環城楽

盤渉調(ばんしきちょう)では

越天楽、千秋楽、青海破、輸台、薐莫者

◆この外民謡俗曲も作符したが資材を欠き詳らかでないが、この偉大な業績は高く評価さるべきものである。
◆彼は稀にみる天才的管楽奏者、横笛の名手として盛名天下を風靡したと云っても過言ではない、その証拠として遠近より志士仁人、文人墨客踵を接して訪れ、横笛の玄妙なる韻律に魅せられ、その感懐を誌に賦し歌に詠じている。

◆かの榎本武揚は池田家の縁戚にあたるので、幕末から明治初期にわたり志士学者の来訪頻繁となり、夜を徹して吹奏して、もてなしたことも屡々あった。また彼自ら一管を携えて東京、京都は勿論南は長崎より北は松島まで遊歴して、官と云わず民と云わず文人武人と交わり、乞わるれば一曲を奏した。聴者のことごとくその妙音秘曲に陶酔した。

◆このように来住の士多彩を極め、明治の三舟山岡鉄舟、勝海州、高橋泥州を始とし、蓮月尼、貞心尼、巌谷一六、高島秋帆、岡本黄石、江木鰐水、古瀬野小石、関藤藤蔭、斉藤拙堂、木村香雨、池田筑後守長発、宮原易庵、阪谷朗廬、坂田警軒、山田方谷、梶山九江、西薇山、江馬天江、鎌田玄渓、谷鉄臣、平尾竹霞、森春濤、森田月瀬、胡鉄梅、李承九、王冶梅、卍庵、田能村直入、川端玉章、藤井松林、岡本こん(目+軍)堂、衣笠豪谷、石橋雲来、長坂雲在、今日庵宗室、池田錦堂、藤原豊寿、渋沢青淵、杉聴雨、佐々木信綱、中井桜山(中井桜洲か?)、森琴石、中西耕石、草場船山、網島梁川、南拝山、大国隆正、高崎五六、その他多くの人士雲の如く墨痕淋漓と賞賛の詩歌を寄せている。

喜 賦  坂田警軒
 一枝携笛萬峯隈、寫我幽懐吹幾回、曲罷招君何物好、且看擔外緑千堆。

暁窓盟臺雅  森春濤
 穿来七竅吹便鳴、月明如水海龍驚、漁腔有底不平事、横竹能為裂石聲。

江馬天江
 待月(同+戈)軽舸、空濠夜不分、舷頭横銕てき(竹 冠の下 逐)、吹破半江雲

池田翁のために  佐々木 信綱
 人の世のうさも忘れて笛の音の
  すみゆくままに澄むこころかな

蓮 月
 春の夜の君のすさびか青柳の
  みどりのおくに笛の音ぞする

◆彼の夫人夢都(むつ)は貞節良妻、よく主人に仕え、子女を愛育し婢僕をいたわった。相次ぐ賓客には心を尽し、自ら割烹よくしよく馳走した。

◆芸を楽しみ芸に生くる彼は心も豊かであった。茶道に入り茶の精神を以て己を持し、人を遇した、更に悟るところあり京都大徳寺の朴崇和尚より得度を受け、日福庵宗鶴の号を授かった。
◆正信の墓碣は坂田警軒の撰文であるが、これと併せて自撰の碑文とその終りに詩一絶を賦して刻しあり、詩意の趣はよく彼の面目を髣髴たらしめるに足る。詩に曰く

池田宗鶴
二間茅屋對鯨岑、板恋謦客敲娯短襟、
  盡日圍爐酣茶味、月升城上照禅心。


石尾松泉(いしお しょうせん)

●森琴石とは、同門の時期があった。(画:忍頂寺静村、儒学:妻鹿友樵
●忍頂寺静村の養子となった時期がある。
●画会(日本美術協会や日本中央南宗画会)などで、森琴石と共に作品を寄せている。


(一)
名ハ賢、字ハ原吉、松泉ト號ス、又天馬山人、食火仙人等ノ別號アリ、安政六年大阪天満老松街ニ生マル、八歳邦畫ヲ西山某ニ學ヒ、十三歳南畫ヲ忍頂寺静村ニ受ク、又妻鹿友樵五十川訊堂ニ従ヒ詞章句法ヲ温子、其ノ他諸名家ト交遊シ、純ラ南宋畫ヲ購究ス、公會ニ出品受賞スルコト數次、然モ筆墨ヲ賣ルヲ敢テセス、年五十一(※明治42年頃)惣然大劫ニ罹リ、天其ノ世業ヲ棄テシム乃チ意ヲ絶チ興ヲ翰墨ニ託シ、曽根崎ノ梅村舎ニ寓居シ優遊以テ餘生を娯ム。
―「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)より―

(二)
石尾松泉先生
先生は大阪の人 名は賢 字は原吉 松泉と號す 別に天馬山人の號あり
安政六年己未七月五日を以て北區老松町三丁目に生る
考助次郎の長男なり 母は山本氏 其租秦川勝の後裔なりといふ 
先生幼より畫を好みしが 人の勧むるありて忍頂寺静村名は温字は知新の義子となり
蘋に六法を修めたりしかど間もなく實家に葺復歸して實業に從事せり
蓋し静村は南宗派の畫家たりしが明治十年逝去す
當時の門人として残れる者は僅かに森琴石翁あるのみなりと
先生歸の後實業の傍ら描寫に論畫に研究惟れ日も足らず
且つ名山勝地を跋渉して範を探り材を蒐め孜々倦むことなく
年知命に達し始めて専門を標榜せしに筆致高雅大に見るべきものあり
叉漢籍は初めは妻鹿友樵に就き 後田結荘千里に就いて陽明学を修め
其他當時大阪に在りし五十川士淵の門に遊びて文法を聞き得る所妙からざりしと
先生資性醇撲にして敢えて邊幅を修めず 時に娯楽として観世流の謡曲を好む
妻愛子との間に二女あり 長を和子といひ梅田高等女學校を、
次を昭子といふ是亦金蘭女學校を卒業して共に家に在り   (北區梅田町290番地)

   ― 「浪華摘英」 (発行兼編纂 三島聴恵・大正5年12月) ―

(三)
森琴石日誌

明治四十二年八月廾日  昨夜ヨリ久々降雨、今晩大雨、後晴
 ○南宗画会ヨリ、石尾松泉ヘ類焼見舞トシテ
  金貮円贈ル

その他、明治42年8/16・17、明治45年6/4、大正元年9/15などに記載があるが、殆どが「石尾を訪問」・「石尾に立ち寄る」など。

(四)
柳湖堂「井上熊太郎氏」への書簡

封筒
井上熊太郎氏への書簡(封筒)
表:東區高麗橋二丁目中橋角
井上熊太郎
曽根嵜中二丁目都橋南通 
石尾松泉

裏:子(大正元年)十一月十九日
本文
1枚目(色違いの便箋3枚に綴られている)
井上熊太郎氏への書簡(本文)
先師 静村翁祭典の節は・・・・・
(先師忍頂寺静村の法要祭典と思われる)

井上柳湖堂=煎茶道具商 (森琴石が以前に住んだ高麗橋の住居至近にある)

大正8年5月4日に開催された「森琴石喜寿祝賀会 目録」の、式次第には

第三席 明清画展観   角 山中春篁堂
  井上 柳 湖 堂    と、書かれている

森琴石の誕生日は2月19日であるが、この大正8年頃、森琴石は危篤状態を繰り返しており、病状の回復を見、祝賀会は大幅に遅れたようだ。喜寿祝賀会の式次第は、第11席まで続く・・・・・・・後月ご紹介します。

◆ご協力者=井上耕太郎氏(大阪市東区高麗橋・古美術商「井上柳湖堂」社長・井上熊太郎氏ひ孫)

上記書簡の画像は、平成12年10月,柳湖堂訪問の折、コピーさせて頂いたものです。

石津灌園(いしづ かんえん)

◆関連事項=「平成19年3月【2】■2番目
◆森琴石門下「舩田舩岳」の、儒学の師匠
◆「滬呉日記」(岡田篁所著)書末尾<跋文>の筆者
◆「石津灌園 伝記」 翻刻=大原俊二氏(米子市史編さん事務局事務総括・・米子市図書館協議委員・米子藤樹会理事)



(一)石津灌園 伝記

 ~灌園遺稿 乾 ~ 冒頭文章より

~灌園遺稿 乾 ~ 冒頭文章より

灌園石津君傳

灌園名は發。字は子節。初の名は賢勤。字は子儉。發三郎と稱す。姓は石津氏。

京都の人。父は賢教と曰う。

幕府時分の造幣所は金銀座なり。石津氏は世々、金座に隷(したが)い、京都において貫(つかえ)る。

子節幼にして學を好み、梶村(鳥+つくり乙)堂★に從い、句讀を受く。
年、甫(はじ)めて十五、父を喪い、世職を襲(つ)ぐ。

召されて江戸の署に抵(いた)り、其の業を肄(なら)う。
萩原西疇★に從て學び、叉或るときは田口江村★に質疑す。

久之(ひさしくして)學殖日(ひにひに)富み、鬱然として家を成す。
王室の中興に會い、金銀座皆く癈す。時に年ニ十八.
京の家居に歸り、是より生徒を教授す。

明治八年、召されて史館に入り、明る年、轉じて京都府の屬と為り、
府史地誌を編輯し、十三年、病を以て辭す。

適(たまたま)本願寺、學校を創る。請れて漢學教授と為る。
性は狷介、世の俯仰に與(くみ)すること能(あたわ)ず。是を以て合わす所少し。

其の著、近事紀畧に甲子の變*を記し、長人舉兵して犯闕し、官軍却て之を討つことを書く。
一顕貴見て悦ばず。之の訂正を命ず。子節堅執して改めず。

本願寺を辞して家居し、著書を以て自ら遺(なぐさ)む。
都下の儒流、大抵、書畫文墨を以て務と為し、其の生産に資す。
子節獨り、文章を以て自ら任ずるに、毀譽得喪を以てせず、其の心を開く。
是を以て其の文、日(ひにひに)巧にして産益(ますます)落つ。

其の朋友及び門人の詩文を批評するに、鶏鳴漏盡*、敢て休まざるなり。
甞て門下諸士を為に、行遠文社を結び、改竄に盡力し、段節の章句を明かにし、
雌黄紙に満すに、必ず両端を叩き*て盡く。

是を以て門下の士、文を善くする者多し。子節師恩を重じて、(鳥+つくり乙)堂西畴
江村の詩文書牘を、皆、之を襲蔵し、且、詳しく其の由を書す。  

故を以て門人之に傚(なら)う。子節の歿後、相謀り、其家を經紀し、資子儀一大学に入る。
且、其の遺稿等を刻さんとするは、此れなり。
子節晩年、病多し。北垣府知事、特に之を優待し、召して文書を甞(つかど)らす。
在蔑起草、荏苒渉年、遂に廖(ちゅう)さず。明治二十四年八月を以て歿す。享年四十九。

豫め後事を書し、之を牀下に窃匿し、
近世の葬祭の虚飾に渉るを切戒し、豊碑を建る等の弊に及ぶ。
平素潔を好み、病深苦に及びて、看護人不如意(ふにょい)。
因て古人、人を待つに、寛の語を以て書し、之を枕頭に置き、以て佩韋*に充つ。
余初めて友人の家にて遇い、以為(おもえらく)、學を好む尋常なる者と。
後ち毎(たびたび)相見る。輙即(すなわち)、刮目して殆んど筆硯を焚(やか)ん*と欲す。
子節文於(よ)り、有典有則。頗る宋潜溪の風を得る。    
嗚呼、京都の文章、近時、萎てつして振わず。
子節を得て、或る期廻瀾して、今は則ち己(や)む。

著す所、近事紀畧古今勤王畧傳文章軌範釋義近世五名家文評本等の書有り。

右は先師灌園先生の小傳なり。嚢(さき)に確堂中村翁に選文を囑し、更に西疇萩原
先生に閲覧を乞う。、屬者(ちかごろ)、先生の潤飾方(まさ)に成んとして、翁既に
就木*し、復たび其の再考を經ること能わず。因て今一たび先生の改竄(かいざん)に
從い、以て巻首に置き、併せて其の由を附記すると云う。

明治三十年八月                    門 人 等  識


≪註釈≫ 
甲子の變  ・・・禁門の変
鶏鳴漏盡  ・・・夜明けまで
両端を叩く ・・・詩文を訂正する
佩韋    ・・・自分の短気を治そうとした故事
筆硯を焚く ・・・他人の詩文を見て我が文才の不足を恥じる
就木    ・・・死んで棺の中にはいること

★「灌園遺稿 乾坤」=石津灌園(発三郎)著/京都:石津儀一出版/明30年8月/乾坤合本(34丁,42丁)

(ニ)著書類及び掲載書誌

1:「灌園遺稿 」=石津灌園(発三郎)著/京都:石津儀一/明治30年8月/34,42丁(乾坤合本)

2:「旧雨詩鈔 上下」= 森春濤著/光玉堂,/明10年2月
   <下巻>に詩一首
3:「雲来吟交詩」=石橋教(雲来)著/前川善兵衛出版/明治13年4月
   <巻一>に詩一首
4:「正文章軌範釈義」= 石津発三郎著/辻本尚書堂等/明21年1月

5:「明治新撰文語玉屑 」=渡辺箕山(元成)編/魁春楼/明12年2月


(ニ)石津灌園の師弟、交流者 (調査中・判明次第随時追加します)

師匠
梶村(鳥+つくり乙)堂 (かじむら ■どう)=伝歴不詳
萩原西疇 (はぎわら せいちゅう)
儒者萩原樂亭の長男、今治藩儒。名は裕、通称英助、字は公寛・好問。師匠は叔父の萩原緑野。
田口江村 (たぐち こうそん)=石合江村
名文之、通称文蔵・高太郎。字は子禮、号江村・黙翁。備前の人、師匠は古畑玉函。
備考:田口・古畑氏を称し石江村と修す。幕府儒官。
弟子
足立敬亭 (あだち けいてい)
*長崎の人、名は清三郎。来崎した佐賀藩の漢学者谷口中秋に就き、次いで京都に登り石津灌園菊池三渓などについて修学した。岡田篁石と同じ「鶴鳴吟社」のメンバー。→岡田篁石=平成19年3月【2】注4
*足立敬亭についての記述は下記からもご覧いただけます
1:【みろくやHP】より:≪みろくや食文化長崎開港物語≫(長崎純心大学長崎学研究所 越中哲也氏文章) 第12回長崎料理編(3)1・足立敬亭と長崎料理
2: 【馬角斎HP】:漢学の滅亡 2002年11月17日
舩田舩岳 (ふなた せんがく)=森琴石門下・舩田舩岳の妻は、森琴石妻「ヤス」の姪。
交流者
 岡田篁所・重野成斎・山田永年・菊池三溪・坂本(河野)葵園   ・・・・・つづく
坂本(河野)葵園
淡路島中貞吉の四男、名は亮、別号白蓮居士。藤澤東畡の愛弟子・河野家の養子となるが明治十二年一族の坂本家を再興し、葵園坂本良平と称した。村上佛山、岡田鴨里にも師事。後一族の坂本家を継ぐ。伏見町に私塾「白蓮池館」を起こした。高見照陽、石津灌園、小原竹香、田能村直入、石橋雲来と親交。藤澤南岳・土屋鳳洲(弘)とは特に親密に交際した。明治14年歿、54歳
―大阪人物辞典―  伏見町は当時の森琴石自宅の近所。
山田永年(弘化4年~大正12年)
名は純、字は子静、永年と号す。山城国の豪商。別に散髪道人・如樵等も号した。幼時より学を好み、中沼了蔵(中沼了三・隠岐出身の儒者)に学び、阪谷朗廬・宮原節庵(易庵・潜叟)・広瀬青村・藤井竹外などに学ぶ。水越耕南(成章)の書誌類にも漢詩が良く出る。
*重野成斎・菊池三溪については、後月略伝などでご紹介します。

(三)その他資料

書簡一通
東京都立中央図書館 特別文庫室:渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫
[渡0485] 石津灌園(発三郎)→竹中  史外史譜65  1通
石津灌園の師匠「萩原西疇」と思われる「西疇」の書簡が、同文庫に収蔵されている=[渡0050] 藤本鉄石(真金)→西疇(史外史譜/1通)
*但し、当HP内では、号「西疇」には、藤本鉄石先生薦場余録 の出版人、原田隆(隆造・号子隆又西疇)の存在もある

★メモ 当HPでの石津灌園関係図

藤本鉄石第十七回忌法要茶筵=明治12年5月/会場:大阪博物場/出席者に森琴石・坂本葵園が含まれる

藤本鉄石    藤本鉄石村山半牧 ・・・共に児玉玉立に書を学んだ

↓(書簡)    ↓

↓       児玉玉立

萩原西疇

↓(門下)

(弟子)岸田吟香

岡田篁石

岡田篁所 ←石津灌園→(親交)坂本葵園 →(師匠)藤澤東畡→(高弟)高木退蔵→(門下)岡玄卿・川上泊堂琴石

↓↑↓(門下)↓↑(同郷・同門=淡路島・泊園書院)

琴石(師)←舩田舩岳→(親交)廣田剛=舩田舩岳とは、大阪府立北野中学校での同僚)

関連資料:北野百年史より & 舩田舩岳日誌

児玉玉立(異色の書家)・・・・・→  平成16年6月注3 & 関連資料:児玉玉立 石碑文

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舩田舩岳児玉玉立は郷土が同じで、明治期に児玉玉立を理解した唯一の人物。歿前に石碑の碑文を友人の廣田剛に託した)

石橋雲来(いしばし うんらい)

●関連事項=作品:「文人画<月ヶ瀬真景>」・詩賛:「森琴石弾琴図」・「平成19年4月■1番目&注2」・「平成18年12月【1】◆南画独学揮毫自在(三)」・「平成18年5月【4】」「平成13年1月■1番目」・雅友知友「大村楊城 交流者」 他多数
●森琴石とは、価値観を共有した親友の間柄で、交流人物が重なる事が多い。
●森家収集資料の中、森琴石の周辺の人物の中では、資料が一番多く残る。当HPでの記載回数も一番多い。
●門下「藤井琴谷」・「波多野花涯(華涯)」が師事し、森琴石長男「森 雄二」も、同氏より漢文や詩文の添削を受けていた。


(一)石橋雲来 について

弘化3年(1846)4月、兵庫県揖保郡竜野町、竜野藩石橋定右衛門の次男として生れる。名は石橋教、増官、矼とも云う。石橋雲来の実父は、竜野藩主脇坂氏とも言われている

維新後大阪に出、最初は高津に住み、その後北区曽根崎中1丁目に居を構え、 漢詩塾『雲来社』を主催し教授した。

漫遊を好み、明治15年から40年までのものを記した、遊記「雲来詩鈔」は、石橋雲来が、各地の文人墨客と交流した様子が記録され、石橋雲来の足跡を知る事が出来る。漢詩集「雲来吟交詩 3冊(48家)」や「友蘭詩 20集(575家)」には、膨大な人物の漢詩が収録されている。収録人名には、現在では殆ど名が知られなくなった人物も多いが、「雲来詩鈔」と共に、当時の文人名や、交流関係を知る貴重な資料でもある。

「なにわ草」(磯野秋渚著・千葉徳松・明治38年3月)では、「今は石橋雲来、居を寒山寺外に占めて、詩人をもており。その詩社を友蘭吟社と云ひ、画人の詩を好むものを集めては点晴吟社と云へり。」と 書かれている。

晩年は明石市の江井ヶ島に住み、大正3年7月29日、68歳で歿した。

★石橋雲来「七言絶句の詩碑」=明石市魚住町中尾にある「住吉神社」の第一本殿の後方(旧薬師堂址の池を背にする)には、大きな詩碑が建立されている。
住吉神社は初夏の藤が見事で、楼門(慶安元年に建立)は、明石市の指定文化財でもある。⇒明石の住吉神社-その6-をご覧ください。

=「中尾のすがた むかし  いま」(平成元年10月・明石市中尾地区区画整理組合発行)による…成澤勝嗣氏(小磯記念美術館学芸係長)



(二)著書

●「雲来詩鈔★」 石橋教著/石橋増官刊/明15~明40 ・・・・下記に森琴石関係箇所をご紹介します
●「雲来吟交詩」 石橋雲来編/前川善兵衛/明13,14
●「泥爪小録」 石橋増官 編/柏原政治郎刊/明15.11
●「湖山老後詩」 小野湖山著/石橋増官 編/石橋増官 刊/明27.5
●「有余楽堂詩法摘要 完★」 石橋雲来 講述/齋藤次郎編輯兼発行/年記なし
●「友蘭詩 第1集」 石橋増官 出版人兼編輯人/明治27,11,10
(題字=岡本黄石、画=橋本青江、評点=谷如意、小野湖山など)
●「友蘭詩 第5集 ★」 石橋増官 出版人兼編輯人/年号不明
森琴石漢詩5首収録・・・下記に該当箇所を画像でご紹介します
●その他
「雲来社月課詩鈔三輯」・「臺湾詩一集」・「征清戰勝詩四集」・「征露戰勝詩五集」=「中尾のすがた むかし  いま」より

「雲来起予吟草」(勝間田稔著 松山:勝間田稔,明26.2)=勝間田夢喋と石橋雲来の松山方面での交流遊記

★「雲来詩鈔」 森琴石掲載ヶ所

巻1 序文 菊池三溪/服部紫江画/雲来仙史自序
内容= 「月瀬吟遊」(森琴石らと) ・・・森琴石のスケッチ帖あり
「広陵遊詩」=頼山陽50回忌法要に出席(森琴石らと)、備後の文人諸氏及び各地から合流した文人達と交流 など。
他に、琴石門下「波多野花涯」の記述あり(於21葉)。
評点=草場船山、菊池三溪、河野春(馬+風)、寺西易堂
巻4 題字 衛鋳生/画 森琴石(山水)
内容=「播洋遊詩」=「極楽寺」で詩書会(琴石ら)    など
評点=菊池三渓、河野春(馬+風)、藤澤南岳
=極楽寺に問い合わせしましたが、住職の移動や戦争などにより、記録資料は無いとの事でした
巻10 題字=藤澤南岳/画=森琴石「蘭図」
内容=角鹿遊詩 など。他に 丹波・有馬・河内の毛受楽斉(河北:松鶴園)訪問の記載あり。
評点=福原周峰、小野湖山、近藤南洲、山田孝堂、藤澤南岳、巌谷古梅(一六)、清原帆山、五十川訊堂
巻14 篆刻=南静山/画=森琴石「雲来肖像画 ◆」
内容=「寿森琴石画史華甲」(森琴石の還暦を祝う詩)  など
評点=なし
巻14末尾の附録の跋文=木村發


◆「雲来肖像図」 と その画稿

雲来肖像図







琴石森熊寫



★「有余楽堂詩法摘要 完」
34,5葉 換骨法、集句体
★「友蘭詩 第1集」
13葉  永田梅坡(永田聽泉の父)
永田梅坡 名源 摂北豊島人 月下吹蕭図
梅坡業農有二子皆能賦詩(耒+禺)
耕餘損(竹冠+虎)相和其樂可想
有余楽堂詩法摘要 完
友蘭詩 第1集


★「友蘭詩 第5集」
22葉~23葉
森 琴石  名熊 浪華人
漢詩5首=蘭・秋江訪友・偶成・花卉図・博多向島

「作者画名動湖海詩山其の餘力雖不及画自有高致」 訓読=作者の画名は湖海を動(おどろか)すも、詩は其の余力に出づ。 画に及ばずと雖(いえど)も、自ずから高致(高い趣き)有り

◆「友蘭詩 第5集」 森琴石の漢詩掲載情報 及び 画像ご提供 及び 評点訓読ご協力者=小林昭夫氏(千葉県松戸市・らんだむ書籍館を公開されておられます)



(三)<石橋雲来 漢詩集> 掲載人名 

1:「雲来吟交詩」

雲来吟交詩
明治十三年四月・石橋教(雲来)著・前川善兵衛出版   吟=正確には(口+金)です


第一集
紀伊―菊池琴溪 東京―小野湖山 西京―頼 支峰 浪華―寺西易堂
東京―南摩羽峯 西京―梅辻春樵 支那―張 斯桂 浪華―坂本葵園
東京―長 三洲 西京―草場船山 周防―福原周峯 支那―陳 曼壽
支那―蔡 錫齢 西京―伊勢小淞 東京―成島柳北 豊後―廣瀬林外
東京―大沼芳チュウ女流 支那―陳 慧娟女流 西京―神田香厳 東京―植村蘆洲
浪華―芳川笛村 西京―林 雙橋 陸奥―大槻西盤 東京―関 雪江
陸奥―安積良斎 支那―張 滋(日+方) 西京―村田香谷  
淡路―和田小耕 東京―福澤諭吉 駿河―石野雲嶺 西京―石津灌園
豊後―五岳禅史 支那―王 冶梅 浪華―高松舫洲 東京―藤森弘菴
豊後―帆足杏雨 周防―太田幽石 土佐―谷 嚶齋 浪華―濱名白塢
浪華―田能村小斎 讃岐―日柳三舟 美濃―南園禅史 朝鮮―金 正模
浪華―橋本青江女流 西京―浅井柳塘 阿波―佐藤玉峰 西京―池田雲樵
支那―蘆 永銘 摂津―高木半簑田 西京―鈴木百年 支那―衛鋳生
對州―大石魯荘 薩摩―相良錦谷 支那―葉 松石 浪華―小原竹香
第二集
備前―仁科白谷 東京―大沼枕山 支那―何 如璋 西京―岡本黄石
浪華―河野春(馬+風) 東京―森 春濤 豊後―村上佛山 浪華―藤澤南岳
支那―王 莢園 西京―谷 如意 東京―廣瀬青村 伊勢―土井有恪
西京―宮原易安 東京―日下部鳴鶴 大和―森田節斎 浪華―本城梅翁
支那―郭 少泉 西京―菊池三溪 浪華―田部苔園 東京―櫻井錦洞
東京―巖谷一六 備中―山田方谷 朝鮮―金 道園 浪華―行徳玉江
西京―小林卓斎 東京―鱸 松塘 奥州―齋藤 馨 周防―長谷川秋水
東京―向山黄村 長崎―呉 来安 浪華―大庭竹公 西京―梁川紅蘭女流
常州―藤田東湖 淡路―伊藤聴秋 浪華―生駒膽?山 浪華―横河穐?山
西京―片山精堂 浪華―森 琴石 讃岐―山田梅邨 東京―前島素軒
浪華―波部竹城 尾張―藤井齋雲 浪華―清海慎堂 浪華―松尾耕三
浪華―瀧野雨香女流 阿波―足立南陽    
第三集
日向―落合雙石 播磨―河野銕兜 豊後―大槻盤溪 豊後―廣瀬旭荘
高槻―藤井竹外 姫路―菅野白華 豊後―劉 石秋 播磨―下田桂屋
阿波―新居水竹 大阪―今泉芝軒 大阪―渡邊東民 大和―家長ショウ庵
大阪―三好秋畝香 西京―岡本黄石 紀伊―倉田袖香 大阪―河野杏邨
浪華―河野春(馬+風) 西京―山中静逸 伊豫―森 余山 西京―江馬天江
讃岐―日柳三舟 西京―神山鳳陽 浪華―小原竹香 高野―藤邨看山
堺 ―頼 達堂 浪華―寺西易堂 高野―今来(口+金)松 東京―水野鐵鳴
高野―別所榮巖 西京―谷 銕臣 讃岐―藤澤南岳 東京―土宜法龍
大阪―狩野白山 浪華―春田古遽 西京―山田永年 大阪―戸谷萩堂
紀伊―羽岡雲僊 浪華―田能邨直入 浪華―田能邨小斎 左海―橋本桂園
阿波―矢野照山 阿波―矢野方舟 浪華―妻鹿友樵 浪華―青山真逸
大阪―芳川笛邨 阿波―橋本晩翠 大阪―豊田三愛? 大阪―河野葵園
阿波―向井橘泉 薩摩―相良錦谷 薩摩―永田雲堂 河内―木邨小園
浪華―高松航洲 大阪―大西松栞 長門―福原周峰 浪華―水原梅屋
淡路―千光寺仰巖 丹波―山本鬼城 浪華―誓得寺徹雲 大阪―小石石鱗
姫路―渡邊劣斎 浪華―香川麗橋 大阪―橋本青江 播磨―横河秋濤
長崎―河口雲松 肥前―中島風雲 備前―本城梅屋 浪華―濱名白塢
明石―梁田葦洲 下総―柴原 和 備中―竹鼻栖鳳 近江―田邊苔園
支那―梁 文玩 越後―尾崎雪濤 東京―神原精二  
   
総計四十八家  百七十首


2:「友蘭詩」 第一集(森家所蔵分)

出版人兼編輯人  石橋増官‐大阪市東區北濱二丁目貮百〇六番地
明治二十七年十一月十日発行

第一集
京都―小野湖山 大阪―緒方南湫 讃岐―三谷象雲 大阪―山田松堂
東京―山田新川 大阪―加島菱洲 攝西―吉阪耕巖 大阪―野田石城
和州―吉田雙峰 大阪―五十川訊堂 筑前―守田洞山 大阪―座光寺半雲
備中―柚木玉村 大阪―清原帆山 豊後―大島豊南 大阪―川上泊堂
播磨―山田清逸 大阪―杉本頑石 備中―池上秦川 攝北―永田聽泉
攝北―小畑松坡 大阪―窪田勤堂 越前―澤崎梨圃 越前―水上月溪
越前―旭 百如 備中―藤澤黄坡 丹波―片山丹山 攝北―永田梅坡
攝北―永田鶴渚 攝北―小畑松雲 大和―清水研齋 越前―吉城湘江
越前―満岡雪泥 越前―中村鶯溪 大阪―藤澤黄鵠 豊前―藤井愿亭
大阪―和田小耕 大阪―室戸大空 備後―早間虚舟 備後―土井石齋
備後―平澤月橋 大阪―尾崎雪翁 伊予―益田麥船 大阪―矢野五洲
淡路―奥野鐵心 大阪―吉田樟南 土佐―高山覺義 備後―青山雲城
備後―橋本竹齋 備後―高木九皐 大和―北川竹溪 加賀―齋藤學水
大阪―早野香處 尾張―大島樵叟 大阪―加藤楓亭 美作―廣路天涯
播磨―神吉梅溪 播磨―岡田鶴齢 播磨―藤田仙嶺 大阪―御幡雪雲
備中―戸田梨軒 山城―松田斯聲 日向―日高桂洲 讃岐―竹林淇涯
京都―近田春耕 大阪―盛田残夢 攝北―丹羽蘭谷 播磨―森田雪堂
河内―井上松窓 攝南―名和菱江 備中―大橋晩翠 出雲―玉木湖雲
讃岐―萬木柏亭 備後―石田還齋 薩洲―本山淡水 美濃―山川寧所
伊予―武田退晏 大阪―林 梅耕 攝北―鈴木水西 東京―池田蘆洲
東京―齋藤誠齋 攝西―秦野兜嶺 大阪―平川苑外 石狩―西村酔處
筑前―岩崎梅南 東京―岩谷古梅 日向―秋月古香 攝北―岸田竹渚
備後―藤井葦城 仙台―福澤廻瀾 摂西―松田臥雲 大阪―福本竹里
信濃―依田稼堂 大阪―片岡黄山 仙台―勝間田蝶夢 大阪―岡本撫山
大阪―藤澤南岳      
   
計九十八家 二百六十五首

◆石橋雲来が晩年に過ごした「江井ヶ島」は、森琴石のスケッチが残っている。

井上 勤(いのうえ つとむ)

●関連事項=「平成15年3月」・リンク情報「九十七時二十分間月世界旅行
●井上勤訳「九十七時二十分間月世界旅行」での銅版挿画は、森琴石による。
●徳島藩医、井上不鳴(井上春洋)の長男


「徳島県歴史人物鑑」 (徳島新聞社刊・1995年)より

いのうえ つとむ       井上 勤

嘉永3・9・15~昭和3・10・22(1850~1928)翻訳家。

名東郡前川中洲(徳島市前川町)の藩医春洋の長男。幼名、永吉。号は春泉。

慶応2年J ・H Donker Crutius(1848~1912)に英語を学び、のち長崎留学、同4年鹿児島に遊ぶ。

明治2年帰国し長久館、外国語学伝習所の洋学教授。

同5年神戸で語学修行。

同8年工部省出任。

同10年徳島師範学校、同11年高知中学校勤務。

同13年より23年まで大蔵省・文部省・参事院・元老院・宮内省と官界を歩く。

その間多くの英独仏の文学を翻訳、独和辞書、英文法書、英会話書などを出版した。

主な訳書に「九十七時二十分間月世界旅行」(明治13年)「西洋珍説人肉質入裁判」「絶世奇談魯敏遜漂流記」(同16年)「獨逸奇書狐の裁判」(同17年)など。

一般大衆向きにヨーロッパ文学を紹介した先駆者であった。

退官後は神戸に移住。墓は追谷墓園にある。

◆資料ご提供者=石川文彦氏(徳島新聞社 メディア開発局資料調査部)

井上 不鳴(いのうえ ふめい)=井上 春洋

●関連事項=「平成17年10月」・関係人物紹介「前川 謙
●明治期の翻訳家「井上勤」、漢学者「堀春潭」の父


「徳島県歴史人物鑑」 (徳島新聞社刊・1995年) より


いのうえ ふめい      井上不鳴

文化9~明治25・1・4(1812~1892)医師、漢詩人。

名は嘉猛、玄(口+黒)、また名黙、字蹊父、通称伸庵、春漁、泡翁、臥遊斎、文会楼、春洋と号した。

家は代々蜂須賀氏に仕え、父は淡路洲本で銃隊長であった[前羽信近]であり、洲本生まれ。

藩医井上玄貞の養子となる。

18歳で京都に遊学、医学を学び、28歳で藩主[斉章(峻陵公)]に従い江戸に行く。

29歳のとき城下前川中洲に宅地を賜り住む。

35歳で長崎にゆき西洋医学と産科を修め、嘉永2年に手痘種(種痘)をはじめて試み、これは四国における最初であった。

48歳で藩主[斉裕]に赴き、諸藩の産物輸出の状況を観察して帰り、その後勧農、水利、塩田の職務につく。

明治15年71歳のとき編集兼女学校御用掛を歴任した。

往年京都に遊び頼山陽に詩文を学び、文墨を楽しむ才人であった。

徳島市助任町の興源寺に墓がある。

◆資料ご提供者=石川文彦氏(徳島新聞社 メディア開発局資料調査部)

え項

江中無牛(えなか むぎゅう)

「久留米郷土研究会誌第24号」(久留米郷土研究会誌編・1996年7月)  より

●関連事項=最新情報「平成16年5月


古賀 幸雄 文  ー異才の郷土出身画家・江中無牛ー

 筆者が日本画家の無牛を知ったのは十数年前、親しい医院で山水画の小品を見た時である。その時は久留米出身とだけ聞いていたが、やがて木村壽一郎氏から自分の旧家近くの通 町三町目生まれだと知らされた。文化財収蔵館所蔵の明治五年の通 町絵図を見ると江中虎吉なる居住者がある。この家出身に間違いあるまい。無牛の作品は当地には数少ないが、先日、収蔵館では大幅の人物画と彼が絵付けた楽焼茶碗を入手した。ともに良好な作品である。次第に関心を深めている内に知人から、少年時代の無牛の筆跡が梅林寺山門前の石造物に見られると聞いた。さっそく出かけて彼の天賦の才に驚いた。

 石造物とは、梅林寺中興主とされる東海猷禅和尚が境内に新西国三十三所霊場を再建した碑で、一米余の柱石の正面 に「明治十二年夏再建 梅林寺」左面に「新西国三拾三所霊場」右面 に藤井治平・木村庄平・氷室伊八三名の施主名が並記され、そのあとに小さく「筆者 十一歳 江中万蔵」とある。万蔵とは無牛の幼名であるが、当時の久留米の著名な豪商たちが碑文揮毫を一少年に依頼しているわけである。その文字たるや肉太で力強い勢があり、すでに名を成した書家の風を感じさせる筆致である。おそらく当時、天才万蔵少年の名が謳われていたものであろう。

 最近本会々員杉山 洋氏が見出された資料に接したが、彼は東京美術学校第一期生(かんしゃく起こして中退)で、横山大観と親交があり、横山は自伝中無牛を高く評価し、大観の号は酒座を共にしているとき生まれたという。江中家は代々紙商で、彼は幼時、井上昆江の柳園塾に学び、絵は平野五岳に就くこと二年余という。美術学校を去ったのち寺社の古画描写 に従事、一時奈良博物館等に勤めたが、晩年は大阪で画業に専念。禅・茶道・俳句に深く通 じていたという。


お項

大村楊城(おおむら ようじょう)

●関連事項=最新情報「平成15年7月■第二2項目」・「平成17年8月■5番目~
●下記(ニ)(三)資料ご提供者=大村紘一氏(東京都、大村楊城曾孫)



(一) 「大阪人物辞典」より


大村楊城 おおむらようじょう

軍人。弘化三年(一八四六)名古屋生まれ。名は屯、尾張藩士。

明治維新後軍人となり、明治二二年(一八八九)大阪連隊区司令長官に就任、以後大役を十年間努めた。

温雅・度量広く酒を愛し書に勝れる。漢学に造詣があり、書を乞う者多く書家楊城としても喧伝された。

大正二年(一九一三)二月六七歳没。墓は正念寺(天王寺区上本間町五丁目)にある「楊城大村先生墓」。



(二)大正2年8月23日・朝日新聞 朝刊記事より


大村楊城(おおむら ようじょう) 翁 訃報記事

陸軍歩兵少佐従五位勲四等大村屯氏は明治三十年八月後備に入りしより専ら書道の人となり楊城居士(ようじょうこじ)の名を以て知られたり、

翁は名古屋藩士にして明治五年始めて陸軍に出仕し西南の役及び二十七八年役に従軍して功あり、

二十三四年の頃第四師団副官として時の高島師団長に随行して管内巡視の際より早く巳(すで)にその書名を知られ高島中将の筆として翁の手に成りしもの少なからず、

その間大阪聯隊区司令官として爾来大阪の人となり近来老病を閑地に養ひ居りしが二十二日正午肺炎を以て天王寺上の宮の邸に逝けり、享年六十七、

二十四日午後三時出棺上本町五丁目正念寺に於て葬儀★を行ふに付親族片山主計監(中行なかゆき)は二十三日東京より来阪せり、

翁の長男有隣(ありちか)氏は歩兵少佐にして目下独逸に留学中なり因に第八聯隊の門標翁の筆に成れるもの

★大村楊城氏葬儀時、友人総代は「藤澤南岳」が務めた。



(三)大村楊城交流者(手紙・遺作・弔問芳名帳による/親交者は緑色


政財界
秋月胤永・秋山恕卿・有栖川熾仁・生島永太郎・宇高寧・緒方拙斎・緒方正清・小川為次郎・片山東熊・河合浩蔵・菊池篤忠・児嶋惣次郎・静藤次郎・芝川又右衛門・杉聴雨・曽我祐準 ・高谷恒太郎・田辺朔郎・谷鐵心・田村太兵衛・高倉永則・徳川義親徳川義恕・中井弘・中村修・長谷川為次・藤沢元造(名元・号黄鵠)・本山彦一・堀内謙吉・三浦梧楼・水野長左衛門・森下博・
軍人
石橋健蔵・大迫尚道・荻野末吉・志水直・真鍋(王+武)・佐久間左馬太高島鞆之助・田中正知・中岡黙・野津鎮武・長谷川好道・森田栄吉・山根一貫・
書画家・漢学者
飯塚西湖・生田南水・石橋雲来磯野秋渚(於兎介)・巌谷一六・岡田英(松窓)・岡本柳南・大島君川・尾崎雪濤・大坪忠三・河辺青蘭・日下部東作(鳴鶴)・河野等(春澤)・近藤元粋(南洲)・近藤元精・近藤子同(石顛・近藤翠石の兄)・佐野五明渓・菅盾彦田部密・田能村小斎・長三洲・土屋弘・寺西易堂・中林梧竹西川元譲藤澤南岳圓山大迂・橋本海関・橋本香迂・廣田剛(澹洲)・藤沢章次郎(黄坡)・福井彦次郎・古川元清・三好藍石・妻鹿友樵・森琴石矢野方舟山本憲(梅崖)



★大村楊城の交流者は下記に一部リンクでご紹介していますが、続きは索引でご紹介の予定です。

秋月胤永=会津若松市:会津人物伝→幕末の会津を支えた公用人≪秋月 胤永 あきづき かずひさ≫
有栖川熾仁=関連資料「一致帖
生島永太郎=甲南小学校同窓会→歴史資料館→草創期の沿革:明治43年(甲南学園の創業発起人の一人)
緒方拙斎・緒方正清=YOKOSO JAPAN →大阪ガイドインデックス→適塾(中ほど以下に記述)

岡本斯文(おかもと しぶん)

●関連事項=最新情報「平成17年9月 【1】及び 【2】千瓢賞餘」 
●「徳島県歴史人物鑑」(徳島新聞社・1995年)より


おかもと  しぶん     岡本斯文

●天保14~大正8・5・29(1843~19199)教育者。
●名は文、幼名を裕太郎、後に優太郎また聞一と称した。
号は午橋・五郎・楽瓢庵・寄瓢閑中有忙處などを使用した。
●晤叟の子、母は御番人寺尾多蔵人倫明の娘。天保14年4月徳島市富田に生まれる。
●幼時は祖父遜斎以来の家塾・友徳塾で四書五経を学び、長じて藩儒・那波鶴峰の教えを受ける。
●慶応3年(1867)藩の儒者見習、明治2年文学教授に任用される。
●明治3年1月に東京遊学を命じられ、安井息軒・林鶴梁に学び、翌4年8月に帰郷。
●明治10年徳島女子師範学校長心得に任命され、女子教育の要を説き生徒の獲得に奔走した。
●同12年徳島中学校(城南高校)の初代校長心得となり、同校の基礎を築いた。
●同15年徳島師範学校長並びに徳島高等女学校長を兼務。
●24年徳島高等女学校の廃止に当たり、自費を投じて養淑会を開いて女子教育を行った。
●同27年12月病で退職した。
●その後は家塾・友徳塾で指導に当った。
●同38年藍綬褒章を授与された。
●生前瓢箪をこよなく愛し、書物を右に瓢箪を左手に撫でながら読書したという。
●1男1女有り、長男・昇は姫路高等学校(神戸大学)の漢文教授となり、娘婿は徳島中学校で35年間漢文を教えた岡本対南である。
●墓所は徳島市二軒屋町の観湖院。(大和武雄)


岡本遜斎(おかもと そんさい)=明和6~文政10、徳島藩儒。儒者岡本家の初代。30歳で家塾を開業。はじめ陽明学、次尾藤ニ洲の教えを受け朱子学に転じる。蜂須賀茂韶に漢学を教えた。

岡本晤叟(おかもと ごそう)=晤室とも号する。文化5~明治14、儒学者・教育者。岡本遜斎の三男。幼時には父遜斎に学び、長じて柴野碧海に学ぶ。安政4年江戸長久館の教授となり、明治2年漢学の首席教授となる。

森琴石と徳島市富田の関係については、「平成16年1月■2番目」に記述があります。

◆資料ご提供=石川文彦氏(徳島新聞社  メディア開発局資料調査部)


岡本対南=明治3年、富田裏町金沢勝の子。17才入って岡本斯文の跡を継ぐ・徳島中学、明治法律学校卒、泊園書院でも藤澤南岳に学んだ。(阿波人物志=徳島県立図書館)

押柄雲峰(おしがら うんぽう)

●関連事項=「森琴石喜寿祝賀会 記念品贈呈者」に名あり。
●門人紹介:その他「森琴石喜寿祝賀会」、記念品贈呈者として、上記以外に名が出る者 に名が出る。
●師匠の山岡米華歿後、森琴石に画を学んだ可能性がある。



(一) 『京阪神における事業及人物』 より

(山川茂雄編輯発行/東京電報通信社発行/大正8年10月)


押柄雲峰 (おしがら うんぽう)

●君は縦横、清颯風を為して、墨痕の淋颯たる処、忽ち山を成し、水となり、或は峻峰雲矗、

或は奔流巨巌、或は溪潤深阻、或は一天碧瑠璃、或は絶壑萬仭、或は煙霧濃起、能く

自然の景状を描写して雅気の掬すべきもの雲峰君の揮毫に於て之を求むるを得べし。

●君は岡山県人にして、明治七年を以て生る。

本名を亀一郎と称し、雲峰は其の号なり、幼より画を好み、南宗派の画家山岡米華氏に事え、

研鑽を重ぬる事年あり技大に進み遂に一家を成す、

而して君は師風を遂げ南宗派の蘊秘を探求し、風物景状、森羅萬象其描く処 可ならざるなし

而かも君は一意丹青の技に心血を注ぎて他意なく画を以て生命とし

芸術の神聖を賛美し謳歌して以て現代に於ける美術家の先覚者たらん事を期しつつあり。

●大正四年四月一日、第七回日本産業博覧会に出品して賞牌を受領し、

其他各地の展覧会 共進会等に於て受賞せられし事多し 亦是れ浪速画会の一人材と云うべし。

●君の男を江春と称し 亦錦波の別号あり、春秋未だ弱冠を超えし事4歳に過ぎず

最も聡明にして、将来嘱望すべき麒麟児たり 父子相共に毫を揮って傑作を出さば

斯界に異彩を放すべく又以て後世を盆するに至らん 切に奮励を望む。

インターネットに出る略伝では、江春は明治28年生まれ、
この『京阪神に於ける事業及人物』が刊行されたのが大正8年である。
4歳ではなく24歳。誤植したようだ。

尚又、インターネットの伝記では、江春の父は「押柄憲嶂」といい、西山翆嶂の門下で、
生没年は明治8年~昭和14年となっている。


関係人物一覧
師匠・先輩たち(南画儒学洋画法系図)雅友・知友(

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森琴石についての人物評