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上記文章及び、下記注釈の一部は、『緒方洪庵と適塾生 ―「日間瑣事備忘録」にみえる―』より、森琴石周辺に関する情報を、一部抜粋して記述させて頂きました。
『緒方洪庵と適塾生 ―「日間瑣事備忘録」にみえる―』(梅溪 昇著※/思文閣出版/昭和59年)
★激動の変革期に生きた二雄 ―洪庵と広瀬旭荘―
二人の二十五年間にわたる親交を旭荘の日記「日間瑣事備忘」を通して明かす異色作。時代の波動に揺れる幕末の大坂を背景に、適塾門下生らの多彩な人物交流と動静の新たな一面が発掘される
〜同著書紹介文章より〜
※梅渓昇氏=1921年兵庫県生まれ。京都大学卒業。大阪大学名誉教授・適塾記念会理事など歴任。適塾研究の第一人者。長年にわたる適塾の研究と、「日間瑣事備忘」での適塾関係の記述とを合わせ、洪庵及び適塾門下生の動静の一斑を明らかにしたもの。適塾の姓名録には名が出ない人物や、逸事など、貴重な事実が検証記述されている。詳細は同著書をご覧ください。
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注1 |
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「日間瑣事備忘 ひまさじびぼう」
廣瀬旭荘の日記で、天保4年(1833,27歳)正月元日から文久3年(1863、57歳)9月28日まで、その歿する五日前まで、およそ31年間にわたる。
★「日間瑣事備忘」は、前編112冊後編54冊の全166冊よりなりたっている。久しく未刊で、その刊行が各方面から期待されていたが、ようやく昭和57年6月から「広瀬旭荘全集編集委員会」の手により、日田の広瀬先賢文庫収蔵の原本に基づき『※広瀬旭荘全集・日記編一』(思文閣出版)以下として刊行されるに至った。
※「広瀬旭荘全集」は、<詩文編、随筆篇、書簡・伝記資料篇、別巻 総索引>よりなり、「日記編」は多治比郁夫氏編で、幕末における人物・文化・学問・社会情勢・生活など、各分野の実態と動向を伝える生きた資料である。
・・・・・同著書紹介文章より・・・・ |
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ご協力者=株式会社思文閣出版
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注2 |
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緒方洪庵 (おがた こうあん)
★幕末の蘭学者・蘭医・教育者。備中足守藩士佐伯惟因の三男。
★名は章、字は公裁、通称は三平、別号に適々斎等。
★1825年、15歳の時、父が大阪足守藩蔵屋敷留守居役に命じられたため大阪へ行く。 翌1826年、中天遊(物理学者・天文学者でもある)の蘭学塾に入る。
★さらに江戸の坪井信道・宇田川椿斎にも学ぶ。のち長崎に遊学し、1838年、大坂瓦町に適々斎塾を開き、医業の傍ら蘭学を教えた。大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介、佐野常民、福沢諭吉ら多くの逸材を育成する。
★文久2(1862)年6月、兼ねてからの幕府の奥医師就任の依頼を受諾し、8月江戸に行き、8月21日幕府奥医師に任じられた。閏8月4日西洋医学所頭取兼帯、12月法眼に叙せられた。
★文久3(1863)年、大坂より家族を江戸に呼び寄せて間もない6月、突然の大喀血をし、下谷御徒町医学所頭取屋敷で急死した。54歳。
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注3 |
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緒方洪庵/廣瀬旭荘 ―それぞれの文久3年―
緒方洪庵=注2 末尾3行をご覧ください
- 廣瀬旭荘
- 門下や知人が「尊皇活動」で、獄死や処刑となり、大坂の人々は≪関わると危険≫と、旭荘に近づかないようになったきた。緒方洪庵が江戸に行ったのは、旭荘が危機的状況にあるさ中だった。洪庵が急逝したのと、旭荘が池田に身を寄せたのは、ほぼ同時期となる。⇒儒学「:廣瀬旭荘(一)年表」をご参照ください。
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お断り:廣瀬旭荘の歿年が、「日間瑣事備忘」の翻刻版と、当HP:儒学「廣瀬旭荘」での使用文献とでは、1ヶ月あまり日数がずれています。これは前者が新暦に変換したもの、後者が旧暦での日付と思われます。当HPでは、<それぞれの文献>での日付をそのまま記載します。矛盾があります事ご承知ください。
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注4 |
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適塾・廣瀬塾の変遷/森 家
地図=森川宝珀堂刻/播磨屋九兵衛書房/弘化2年(1845)
- 1,2 =緒方洪庵の塾
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1:天保9年4月頃 |
:津村東之町・・・・適塾 |
2:天保14年12月15日 |
:過書町 ・・・・適塾(現在も残る) |
- 1.2.3.4.5.6. =廣瀬旭荘の塾変遷
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1:天保9年5月8日 |
:西横堀・・・・・・・・・・・月近亭 |
2:天保9年12月4日 |
:呉服橋東南京町橋北苫屋巷 |
3:天保11年3月9日 |
:高麗橋四軒街・・・・・・・・・・・・芝軒 |
4:天保11年8月29日 |
:舟町橋東畔北折処 |
5:弘化3年11月6日 |
:淡路町津村北之坊 |
6:安政元年12月27日 |
:伏見町心斎橋東入北側・・・・・九桂草堂 |
森家=
地図にある「南本町4丁目」・「高麗橋3丁目」は、後年、森琴石が、伏見町から転居した町名。 |
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注5 |
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- 久坂玄機(久坂元機)
- 文政3年生まれ。萩藩医。吉田松陰の兄。若年時より長崎に蘭学を学びに行き、弘化3年京都に遊び、弘化4年6月から洪庵門に入る。翌嘉永元年正月、鍋島家御側医師「伊藤玄朴が、藩命で江戸より佐賀に赴く途中大坂に寄り、玄機を自分の象先堂塾の塾長に欲しいと洪庵に申し出た。洪庵に恩義を感じていた玄機はその申し出を断った。(嘉永元年)3月、玄機は適塾の塾頭に挙げられる。嘉永2年正月藩命により萩に帰り、都講役に任じられる。安政元年2月27日歿する。享年35.
しかし適塾の姓名録にその名は無い。
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注6 |
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幕末維新時に日本を変える原動力となった「塾」および主な「塾生」
- 大坂「適塾」
- 足立寛・池田謙斎(森琴石友人「中野雪江」の義弟) ⇒ポンペと中野雪江)・大村益次郎・大鳥圭介・佐野常民※・ 高松凌雲・長与専斎・橋本左内・福沢諭吉※・箕作秋坪 ほか。
- ※佐野常民 ⇒「平成18年4月【2】■2、3番目 & 注3」・「平成18年5月【4】注3◆2番目 森琴石と慶応義塾」・「平成19年1月【1】■7番目」
- ※福澤諭吉=「平成16年9月■2番目」・「平成18年5月【4】注3◆2番目 森琴石と慶応義塾」」・「平成18年6月【1】■6番目」・「平成18年9月【2】■5番目」・雅友知友「武藤吉次郎」・索引「朝吹英二」
- 日田「咸宜園 かんぎえん」
- 大村益次郎・上野彦馬・・大隈言道・岡研介(シーボルト鳴滝塾塾頭)・高野長英・長三洲・長梅外(長三洲の父)・平野五岳・藤井藍田・帆足杏雨など=「廣瀬淡窓(三)主な門下生」をご覧下さい。
- 萩 「松下村塾」・「明倫館」
- 久坂元瑞・伊藤博文・入江九一・木戸孝允(桂小五郎)・品川弥二郎・高杉晋作・福原周峰・前原一誠・山県有朋・山県太華 ほか。
大坂「廣瀬塾」=「儒学:廣瀬旭荘(ニ)主な門下生」をご覧下さい。 |
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注7 |
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- 山成剛蔵(山鳴剛蔵)
- 山成剛蔵=山鳴大年※(やまなり だいねん)の養嗣。緒方郁蔵(緒方家の養子になる前)と共に江戸へ行き、信道塾に入り、のち郁蔵と共に来坂、洪庵の塾に入門した。剛蔵・郁蔵、共に適塾の姓名録には名が無い。
※山成大年は阪谷朗廬の甥に当たり、阪谷朗廬30歳の時、芳井町簗瀬(やなせ)に桜渓塾を開いたのは、伯父の山鳴大年の協力が大きかった。山成大年は、廣瀬旭荘の恩師「菅茶山」に漢学を学んでいる。
- 「山成家」記述ヶ所
- 平成13年8月■2番目
- 「後月郡」・「芳井町」記述ヶ所
- 「平成16年7月■1番目注1 メモC●3つ目」・「平成18年7月【1】■5番目&7番目」・「門人−岡山:藤井琴谷」・雅友・知友「柴原宗助」・「家族:森定七」
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