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先月度は、森琴石が、枕屏風として愛用していた「2曲1隻 貼合小屏風」の右曲面「小原竹香」、「浅井柳塘」、「天野方壷」、「行徳玉江」の4家の作品をご紹介しました。作者4家は、かなり古くからの知己であったと思われる。
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今月度では、左曲面の「建部聴山」、「波部竹城」、「汪雲(王雲か?)」、「藤田秋晴(秋生)」の4家の作品をご紹介します。「建部聴山」、「波部竹城」、「藤田秋晴(秋生)」は、当HP「資料:大阪の有名諸大家」に名が出るなど、詩書画を嗜み古美術を愛する”大阪の趣味人”として名高かったようだ。「建部聴山」・「藤田秋晴(秋生)」は、明治15年の「第1回内国絵画共進会」に、共に大阪から出品している。
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「汪雲」が姓が<汪>で、号が<雲>とういう中国清代の文人だったのか、或いは号が<汪雲>という、日本の文人だったのかは不明である。中国の唐、宋、明、清代の書画家を網羅した、近藤元粋(南洲)編「支那書画名家詳伝」や、他の”中国書画人名辞典類”、或いは日本の”書画家人物伝”にも「汪雲」の人物名は無い。
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「汪雲」を「王雲」とも書くならば、大正3年刊の近藤元粋(南洲)編『支那書画名家詳伝 清之部』には、「王雲」の名で、号が<清痴>という”沈周(沈石田)の遺意を得た”という、清の康煕時代の文人が存在するが、生没年が1652年~1735年で有る事から、この王雲は違うようだ。
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「王雲」という名では、森琴石より年齢がかなり若いが、周辺の人物との共通性などから考えて、森琴石との繋がりがありそうな”中国清代末期の画家”の存在がある。大阪府和泉市の「久保惣記念美術館」が平成12年10月に編集発行した『定静堂蒐集 近代百年中国絵画』の中には「王雲」の作品と、鶴田武良氏による画家略伝が収められている。下記に「王雲」の人物を、画家略伝より適宜抜粋したものをご紹介します。
- 「王雲(1888~1934)」
字は夢白。号は破斎、郷道人。原籍は江西豊城、父の代に浙江省衛都に移る。幼時より絵を好み、高じて上海に出、両替屋で働きながら、「任伯年 注1」に花鳥画を学び、後「呉昌碩 注2」に師事した。中年になり北京に出て同郷の「陳師曽 注3」を頼り、司法部に録事の職を得、更に北京美術専科学校教授となった。陳師曽は王雲の花卉・花鳥画を「華嵒 注4」以後の第一人者と評した。北京で名声を得た王雲は、京劇の名優「梅蘭芳 注5」に絵画を教えたという。1926年、東京で開催された「第4回日華絵画連合展覧会」に3点出品し、その時に来日したともいわれる。以前から疾病があり、1934年(昭和9年)天津の日本病院で歿した。
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清代末期の画家「王雲」の師匠「任伯年」は、森琴石と親交した「内海吉堂」の師匠でもあり、「胡公寿」と並び称される人物である。「胡公寿」は森琴石と親交した。これまでの、森琴石と中国文人との交友関係の調査などから、「汪雲」は、上記略伝の「王雲」の可能性が高い。
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今年の4月、インターネットのオークションで、森琴石の「桃花燕図?」が出品された。<美しく咲いた桃の花(枝)にとまった燕と、今まさに飛び立とうとする燕>を画にしたもの。鮮やかな桃の花弁の色使い、異なる燕3態の描き方に妙味があり、作風は胡鉄梅風とも思えた。落款には「桃咲燕語 己丑晩秋(明治22年9月)写於読画廬 琴石」とある。上記の画家「王雲」が生まれた年に描いた作品である。
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一方、久保惣記念美術館『定静堂蒐集 近代百年中国絵画』に掲載された「王雲」の作品は「桃花柳燕図」といい、<美しい桃花の枝の真上から柳が1本垂れ下がり、枝の下方には燕>が描かれている。色使いは淡く縦描きであるが、「王雲」を、平素念頭に置いていただけに、似た題材の”森琴石の作品の出現”に少々驚いた。
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「王雲」の生誕が1888年(明治21年)で、1926年(昭和元年)に来日したというならば、来日は森琴石の死後になる事となり、辻褄が合わない。森琴石旧蔵小屏風を<森琴石の転居を祝ったもの>とし、屏風の揮毫年代を明治13年後半~明治14年の後半と特定するには矛盾がある。小屏風の揮毫者が「王雲」であるならば、森琴石が大阪市北区高垣町に住んでいた時と思われ、『定静堂蒐集 近代百年中国絵画』の略伝に書かれている”王雲の来日”が<昭和元年>では無く、明治末期か大正初期に来ていた可能性があり、小屏風の揮毫画は、新事実を示す資料になる。
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小屏風にある「汪雲」は未知の人物かもしれない。「汪雲」について、人物の特定が待たれる。
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