森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成22年(11月)

  今月の話題

【1】 森琴石旧蔵 「1隻2曲小屏風」 について
●森琴石が枕屏風として使用
揮毫者
右曲:小原竹香・浅井柳塘・天野方壺・行徳玉江
左曲:建部聴山・波部竹城・汪雲(王雲?)・藤田秋晴(秋生)
★今月は左曲のご紹介です



お知らせ
『森琴石作品集』は、は、12月13日以降、書店・出版社予約注文でお求め頂けます
現在
版元ドットコム
オンライン書店ビーケーワン         で紹介されてています
紀伊国屋書店BookWeb
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『森琴石作品集』の概要は、来月度でお知らせ致します。


【1】

先月度は、森琴石が、枕屏風として愛用していた「2曲1隻 貼合小屏風」の右曲面「小原竹香」、「浅井柳塘」、「天野方壷」、「行徳玉江」の4家の作品をご紹介しました。作者4家は、かなり古くからの知己であったと思われる。



今月度では、左曲面の「建部聴山」、「波部竹城」、「汪雲(王雲か?)」、「藤田秋晴(秋生)」の4家の作品をご紹介します。「建部聴山」、「波部竹城」、「藤田秋晴(秋生)」は、当HP「資料:大阪の有名諸大家」に名が出るなど、詩書画を嗜み古美術を愛する”大阪の趣味人”として名高かったようだ。「建部聴山」・「藤田秋晴(秋生)」は、明治15年の「第1回内国絵画共進会」に、共に大阪から出品している。



「汪雲」が姓が<汪>で、号が<雲>とういう中国清代の文人だったのか、或いは号が<汪雲>という、日本の文人だったのかは不明である。中国の唐、宋、明、清代の書画家を網羅した、近藤元粋(南洲)編「支那書画名家詳伝」や、他の”中国書画人名辞典類”、或いは日本の”書画家人物伝”にも「汪雲」の人物名は無い。



「汪雲」を「王雲」とも書くならば、大正3年刊の近藤元粋(南洲)編『支那書画名家詳伝 清之部』には、「王雲」の名で、号が<清痴>という”沈周(沈石田)の遺意を得た”という、清の康煕時代の文人が存在するが、生没年が1652年~1735年で有る事から、この王雲は違うようだ。

「王雲」という名では、森琴石より年齢がかなり若いが、周辺の人物との共通性などから考えて、森琴石との繋がりがありそうな”中国清代末期の画家”の存在がある。大阪府和泉市の「久保惣記念美術館」が平成12年10月に編集発行した『定静堂蒐集 近代百年中国絵画』の中には「王雲」の作品と、鶴田武良氏による画家略伝が収められている。下記に「王雲」の人物を、画家略伝より適宜抜粋したものをご紹介します。



「王雲(1888~1934)」
字は夢白。号は破斎、郷道人。原籍は江西豊城、父の代に浙江省衛都に移る。幼時より絵を好み、高じて上海に出、両替屋で働きながら、「任伯年 注1」に花鳥画を学び、後「呉昌碩 注2」に師事した。中年になり北京に出て同郷の「陳師曽 注3」を頼り、司法部に録事の職を得、更に北京美術専科学校教授となった。陳師曽は王雲の花卉・花鳥画を「華嵒 注4」以後の第一人者と評した。北京で名声を得た王雲は、京劇の名優「梅蘭芳 注5」に絵画を教えたという。1926年、東京で開催された「第4回日華絵画連合展覧会」に3点出品し、その時に来日したともいわれる。以前から疾病があり、1934年(昭和9年)天津の日本病院で歿した。

清代末期の画家「王雲」の師匠「任伯年」は、森琴石と親交した「内海吉堂」の師匠でもあり、「胡公寿」と並び称される人物である。「胡公寿」は森琴石と親交した。これまでの、森琴石と中国文人との交友関係の調査などから、「汪雲」は、上記略伝の「王雲」の可能性が高い。



今年の4月、インターネットのオークションで、森琴石の「桃花燕図?」が出品された。<美しく咲いた桃の花(枝)にとまった燕と、今まさに飛び立とうとする燕>を画にしたもの。鮮やかな桃の花弁の色使い、異なる燕3態の描き方に妙味があり、作風は胡鉄梅風とも思えた。落款には「桃咲燕語 己丑晩秋(明治22年9月)写於読画廬 琴石」とある。上記の画家「王雲」が生まれた年に描いた作品である。




一方、久保惣記念美術館『定静堂蒐集 近代百年中国絵画』に掲載された「王雲」の作品は「桃花柳燕図」といい、<美しい桃花の枝の真上から柳が1本垂れ下がり、枝の下方には燕>が描かれている。色使いは淡く縦描きであるが、「王雲」を、平素念頭に置いていただけに、似た題材の”森琴石の作品の出現”に少々驚いた。




「王雲」の生誕が1888年(明治21年)で、1926年(昭和元年)に来日したというならば、来日は森琴石の死後になる事となり、辻褄が合わない。森琴石旧蔵小屏風を<森琴石の転居を祝ったもの>とし、屏風の揮毫年代を明治13年後半~明治14年の後半と特定するには矛盾がある。小屏風の揮毫者が「王雲」であるならば、森琴石が大阪市北区高垣町に住んでいた時と思われ、『定静堂蒐集 近代百年中国絵画』の略伝に書かれている”王雲の来日”が<昭和元年>では無く、明治末期か大正初期に来ていた可能性があり、小屏風の揮毫画は、新事実を示す資料になる。




小屏風にある「汪雲」は未知の人物かもしれない。「汪雲」について、人物の特定が待たれる。

 
 

注1~注5は、下記、森琴石旧蔵小屏風 左曲分「3 汪雲」の項目内で記述します。





 

森琴石旧蔵 小屏風



 

作品紹介(左曲分)



★翻刻、読解、語釈は、松戸市の「小林昭夫氏」にご協力頂きました。


1 「建部 聴山」 (たてべ ちょうさん)

 

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翻刻
辛巳晩秋為
琴石画兄雅属併■翁墨
聴山居士寫

語釈
[辛巳晩秋]…明治14年10月
[聴山子]・[陸]・ [即事多所■]
★「建部聴山」掲載文献
1:『浪華の魁』(垣貫一右衛門編/明治15年1月)
[翰墨賞古諸派 建野聽山:雑魚場(建部の誤植か?)]
2:『農商務省版 絵画出品目録』(明治十五年十月/国文社)
絵画出品区分目次(大阪) 第三区  支那南北派  (一)山水     南宋派  号聽山   建野六右衛門
                                    (二)芙蓉ニ鴨   同じ   (建野は誤植と思われる)
3:『墨場必携 題画詩集 森琴石編集』(北村宗助・吉住音吉・吉岡平助など/明治12年11月など)
巻下…題字揮毫者
5:『扶桑書画譜』」(河副作十郎(何杏村)編/明治22年刊/全6冊)
第3冊目 …建部陸、号聴山亦可而浪華江戸堀下通5丁目16番地住人
★当HP内記述か所
平成18年11月 注5[下]」・「平成20年1月【1】■4番目」・「平成22年1月【1】」・「平成22年4月【1】」・「平成22年5月【1】■1番目」 など
 


 

2 「波部 竹城」 (はべ ちくじょう)

 

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翻刻
隔水踈松奏笙簧

辛巳晩秋写祝
栞石画伯移居
竹城敬
読解



栞石画伯の転居を祝って描いた




語釈
笙簧(しょうこう)=笙の笛の舌のこと。笙の笛の 形容 鴬声。
[敬印]
★「波部竹城」掲載文献
1:「雲来吟交詩」(石橋教著/前川善兵衛出版/明治13年4月)
第2集 浪華―波部竹城
2:『浪華の魁』(垣貫一右衛門編/明治15年1月)
[翰墨賞古諸派波部竹城 :道修町三丁目]
★★当HP内記述か所
平成22年4月【1】」・「平成22年5月【1】」・「平成22年10月【1】
 


 

3 「汪雲(王雲?)」 (おう うん)

 

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翻刻
山水遺韵秋満耳
似琴響參宮商

為琴石先生
汪雲居士
読解
山水の遺韻 秋 耳に満つ、
琴響の宮商に参ずるに似たり。




語釈
「遺韻」…ひびき。
「宮商」…音律、音楽。「宮商に参ずる」は音楽を奏でること。
[小?]・[清?]…判読不可
★「汪雲」については情報が皆無である。
★「汪雲」を「王雲」とした場合
王雲(1887 -1938 )=字は夢白,号は郷道人。江西豊城の人。花鳥、魚、虫等の精密画を得意とする。初め任伯年の影響を受け、後呉昌碩、陳師曽の指導をうけた。京劇の名優梅蘭芳は彼に画を学び、二人は梅蘭芳の綴玉軒でたびたび画の合作をした。。明の徐渭注6に影響を受け、花岩,動物画は特に突出している。
★文字の書風が、『定静堂蒐集 近代百年中国絵画』に掲載画の、王雲の署名とはかなり違う。
★本文中の 注1~注5及び注6
注1 任伯年(にん ばくねん)
清時代末期の画家。浙江省紹興の人。初名は潤、のち頤、号は小楼、次遠、伯年は字。初め任熊、任薫兄弟に画を学ぶ。のち上海で張熊に学び、呉昌碩らとも親交した。人物・花鳥画に新風をうちたて上海画壇に大きな影響を与え、胡公寿と併び称された。任熊・任薫・任預ととに〈四任〉といわれる。門下に王一亭がいる。光緒21年(明治29・1896)歿、57才。(by コトバンク)
注2 呉昌碩(ご しょうせき)
清末・中国近代の文人画家。浙江省安吉生。名は俊卿、昌碩は字、別字に蒼石、号に苦鉄・大聾。在官十余年で上海に隠棲。文芸を学び、詩・書・篆刻に精しく、画は筆力と気格のある個性的画風に達し、清朝最末期の代表的画人となった。また書は周の石鼓文に基づき高古疏落の新様式を樹立、一世を風靡した。民国16年(昭和2・1927)歿、84才。(by コトバンク)
注3 陳師曽=陳 衡恪(ちん こうかく)
清末民初にかけて活躍した篆刻家・画家。字は師曽、号は槐堂・朽道人。父は詩人の陳三立で、祖父は湖南巡撫の陳宝箴。歴史学者の陳寅恪は弟。曽陳年を師とした。日本に留学後は美術教育に携わる。詩・文・書に巧みでとりわけ絵画と篆刻に優れた。呉昌碩に直接指導を仰いだこともある。斉白石とは師友となり、互いに影響し会ってその芸術を高めた。(by ウィキペディア)
注4 華嵒=華厳(かげん)
清代の画家。福建臨汀の人。字は秋嵒、号は新羅山人・白沙道人。杭州に寓居し、しばしば揚州を訪ね、揚州八怪の金農らと交流した。山水・人物・花鳥とあらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成、色彩によって新しい画境を拓いた。代表作に『大鵬』『天山積雪図』等がある。乾隆21年(1756)頃歿、享年未詳。(by コトバンク)
注5 梅蘭芳(めいらんふぁん)
中国の伝統演劇・京劇の俳優。江蘇省生。字は畹華。11才の時女形として初舞台を踏み、以来名女形として一世を風靡した。民族的な表現形式に即した方向で京劇の近代化を推し進め、数多くの外国公演を通じて民族の芸術として世界の檜舞台にのせる道を切り開いた。また画を能くした。中国戯曲研究院院長・中国京劇院院長。中華人民共和国13年(昭和36・1961)歿、76才。(by コトバンク)
注6 徐渭(じょい)
明代の画家,詩人。字は文長,号は天池・青藤。浙江の人。貧窮と狂騒の破滅型の一生であったが,芸術的天分を多方面に発揮,詩文・書画にすぐれたばかりでなく,戯曲の創作や評論,老荘や仏教に関する著述もある。(by コトバンク)
 


 

4 「藤田 秋晴(秋生)」 (ふじた しゅうせい)

 

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翻刻
草敷横野翠煙斉
水漲春江望轉迷
隔岸時聴牛背笛
夕陽低遠緑橋西
辛巳春三月
冩于浪華客次
為琴石先生嘱
秋晴 義
読解
草敷 野を横ぎり 翠煙に斉(ひと)し、
水は春江に漲り 望 転(うた)た迷ふ。
岸を隔て 時に聴く 牛背の笛、
夕陽は低遠にして 緑は橋西。
辛巳春三月
浪華の客次に于(おい)て写(ゑが)き、
琴石先生の嘱の為とす。
秋晴 義




語釈
「辛巳」…明治14年(1881)
「客次」…旅館。
[能印義一]・[秋晴]
★藤田秋晴(秋生)掲載文献
1:『浪華の魁』(垣貫一右衛門編/明治15年1月)
[官餘游戯 画 :藤田秋晴(川崎)]
2:『農商務省版 絵画出品目録』(明治十五年十月/国文社)
絵画出品区分目次(大阪) 第三区  支那南北派  (一)山水  南宋派  号秋生   藤田義一
3:『名家画帖』(森琴石編/明治13年3月/吉岡平助、吉住音吉)
第27図目「蘆鴈図」
 
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名家画帖の「蘆雁図」の画稿が残されている


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石敢當 梅石書