森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成20年(1月)

 
今月の話題 七絃琴について
【1】 伏見无家氏より 七絃琴のCDをご送付頂きました
【2】 森琴石の七絃琴について
-神技に入るほどの腕前だった-
【3】「七絃琴の下絵」など

【1】

七絃琴の研究や、演奏会などを通じ、日本に於ける七絃琴の復興と琴道の実践活動を精力的に努められている「鎌倉琴社」の伏見无家 注1氏より、七絃琴弾奏のCDをご送付頂きました。

CD『日本琴學』は、文部科学省の日本学術振興会科学研究費補助金を得て、同氏弾奏の琴曲を収録したもので、全八曲の中には、森琴石の琴操帖にある「歸去來辭 注2」も収録されている。

七絃琴の音色は不思議な魔力を持つ。その響きは邪気を取り払い、人の心を清雅なものに導き、幽玄の世界へと誘う(いざなう)。音曲は一律単調では無く、清らかなもの、厳かなもの、またチャーミングに感じるものもあり、それはまさに文人が描く「南画の多様性」にも似て、しかも奥深い。

伏見氏のホームページ内 【琴学入門】【文人がこよなく愛した琴─七絃琴】では、
●七絃琴は、文人がたしなむ<琴碁書画>の筆頭に挙げられ、儒学の精神修養の具とする。琴を学ぶ者の心得、必須条件として「文學を有し、詩をよく吟ずる者でなければならない」。
●独奏楽器として明窓浄机の書斎や人里離れた幽邃な自然の中で、ひとり、あるいは知音注3なる友人の前で琴は弾かれてきた。琴楽は単に音楽として演奏するより、深遠な琴の趣を悟ることにあり、それゆえに琴楽は「琴學」あるいは「琴道」と呼ばれ、音楽演奏のみにとどまらない藝術的世界を有している
・・・など、琴学や琴道の事やその精神性について詳しく解説されています。

当HPの「資料:詩、賛」でご紹介していますが、森琴石が七絃琴を弾じる画が残る 注4。筆者は「忍頂寺静村」である。画の所有者「建部聽山」と共に、「忍頂寺静村」・「森琴石」たちは、七絃琴の<知音>だったと思われる。森琴石の周辺には、儒学の師匠で七絃琴の第一人者「妻鹿友樵」やその門下の琴士たち、「池田正信」など、奏楽に卓越した人物の存在がある。

 
 
注1
 
伏見无家(ふしみ むか)氏
当HP調査情報平成19年8月【2】で記述の、山陰歴史博物館所蔵の、浦上玉堂愛用の「萬澄幽陰(寛政四年)」が、「浦上玉堂」手製のものであると鑑定された方です。又煎茶道等文人趣味全般についての研究に努められておられます。
 
注2
 
「歸去來辭」
平成19年8月【1】注10 に 森琴石が書いた琴譜があります。

「鎌倉琴社」のHPより、琴曲「歸去來辭」の彈奏が聞く事ができます。また「歸去來辭」の解説もあります。
 
注3
 
「知音」とは
琴音を知る者、親友の事を言う。
森琴石の作品には「知音」と押印したものがある。下にご紹介します。

大正8年 ふくさ 「益寿延年」

己未清和 琴石 時年七十有七歳

ふくさ

知音

関川氏蔵(東京都・森琴石長女「昇」の孫)

お断り:写りの悪い紙焼写真を使用の為、不鮮明です

 
【2】

森琴石は「森琴友」という、七絃琴での号名を持つ 注1。その腕前は<神技に入るほどのもの>だったと、帝国絵画新報主筆の「吉岡班嶺」が、琴石歿後の昭和2年発行の「真偽評価 書画鑑定指針 注2 / 森琴石伝 注3」で記述している。

森琴石の僅かに残る日誌によれば、「吉岡班嶺」は明治45年7月24日、森琴石の自宅に取材に来ている 注4。帝国絵画新報は「帝国絵画協会」の機関誌で、「帝国絵画協会」の会員には森琴石の他、岡 不朋も会員である。

「真偽評価 書画鑑定指針」には、落款や印譜なども掲載されています。下記に同著書内に掲載の<森琴石の落款>を掲載します 注5。当HPでも、森琴石の筆跡を知る箇所が少しありますのでご参考にして下さい 注6。WEBサイトのオークションでは、時々著しい<森琴石の贋作作品>が見られます。森琴石が活躍した当時、森琴石の<にせもの>が多数出回っていたという。

 
 
注1
 

森 琴友=平成19年8月【1】 に記述

 
注2
 
「真偽評価 書画鑑定指針 近代南宋諸系」
★吉岡班嶺著/帝国絵画協会/昭和2年12月日発行
★掲載画家=冨岡鐵斎・森琴石・福島柳圃・中島杉陰・奥原晴湖・川上冬崖・服部波山・井村常山。奥原晴翆・藤田呉江・重春塘・渡邊晴嵐・松岡環翆・浅井柳塘・高森碎嚴・山本竹雲・西田春耕
★内容=各画家の 伝記・落款・印章・作品評価(価格)・作品写真
 
注3
 

―森琴石 伝―

本姓は梶木、父を源三郎(注:正しくは源次郎)といひ、琴石はその三男。
天保十四年三月十九日、摂津有馬郡湯本に生れ、幼にして旧大阪町役人森善作
(注:正しくは森善蔵)の養子となり其の姓を冒した。
森善蔵=本名伊平(平成19年7月【2】

琴石名は、字は吉夢、通称を琴石といひ、叉之を號となし、別號を鐵橋、畫屋を聽香讀畫庵と称した。
幼より畫を好み、八歳の時(注:正しくは数え6歳)早くも鼎金城に就いて南宋画を學び、金城の歿後は更に忍頂寺静村に師事して益々南画を研究し、叉西洋画を高橋由一に學び、傍ら漢学を高木退蔵妻鹿友樵に就いて修めた。

性漫遊を好み名山大川を跋渉しては、寫しては、家に蔵した、而して天才的技能に加ふに多年の修養を以てし入神の妙を極め、清人胡公寿は曾て書を寄せて詩書画三絶と称した程画名大いに振ふに至った。

維新の際顧みられなかった画運の漸く勃興するに及び、琴石は斯道の発達に盡瘁して寧日なく、獨力展覧会を開き、建言書を出し、或いは審査員となり諤々の議を闘して向上に努め、叉明治十七年には大阪に画学校を興した事があった、其斯界に盡した功に依り明治三十九年賞勲局より御紋章入銀盃を下賜せられた。

又日本美術画会委員、東京南宋画会顧問、日本画会評議員、大阪南宋画会顧問、大阪絵画会委員等に挙げられ、大正二年八月には文部省美術審査員に任じられ、同年帝室技芸員に列せられて関西南画界の巨擘を以て唱へられた

其の画は山水を最も得意とし、各地展覧会、博覧会に出品して金銀銅牌を受領すること数十回に及び、就中明治四十二年日英博覧会に出品した松溪幽穏」の図が会心の作にして世評高かった、叉御用画の恩命に浴した事も度々であった、著書に南画獨學、題画詩集、墨場必携等がある。

琴石は性謙譲、居室には常に先師の筆を掲げて居ったといふ、その趣味詩文に長ずるは勿論、七弦琴を能くし技神に入るといふ、大正十年二月二十四日、七十九歳の高齢を以て、大阪北区高垣町の居に歿した。

 
注4
 

「森琴石日誌」 より 

明四十五年七月二十四日

七月廿四日 曇
●永松春洋氏属、小切四枚山水図出来ニ付
 小包郵便ヲ以相送ル、
 
中森*来ル、 *森琴石の作品斡旋者
○東京やまと新聞大阪支社記者・大内松甫
 来訪有之、当地絵画上之件、聞取ラル*
*取材に来た
○東京帝国絵画新報主筆・吉岡班嶺
 来訪、斯道*之現況聞合有之、
*このみち=絵画会のこと

☆日誌翻刻=成澤勝嗣氏(神戸市立小磯記念美術館学芸係長)

 
注5
 

森琴石落款=「真偽評価 書画鑑定指針 近代南宋諸系」より

但し60歳から67歳までの筆跡

森琴石 60歳から67歳までの筆跡

森琴石の筆跡は若年・壮年(端整で美しい)、晩年(文字が大きくなり歪みが少しある)と、徐々に変化しています。

 
注6
 

当HPでの森琴石 落款 箇所=資料:詩賛「寿石奇千古図」画賛/書簡「岡 不崩 への書簡」/「平成19年12月【1】注3扇面作品」(鮮明ではありませんが雰囲気は分かります)

 
【3】

手元に森琴石が描いた「七絃琴」や「弾琴図」の下絵がありますので、下記に一部ご紹介します。

 

森琴石 七絃琴&弾琴図

●銅版袖珍「南画独学揮毫自在」 (ニ)より

七絃琴

弾琴図

本のサイズ12.8cmx7.6cm

★南画独学揮毫自在=平成18年12月【1】&11月【1】■2番目&9月【2】&2月【1】平成19年10月【1】■7番目&1月【2】■2番目平成15年8月■2番目 など



●下絵4点


↓「琴学入門」の写し
安絃背面    安絃正面
「琴学入門」の写し


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