森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成20年(2月)

 
今月の話題
【1】 森琴石と「梅花図」
月ヶ瀬 梅林
管公壱千年祭記念行事
<梅花図>を出品
守口市「佐太天満宮」献納画
【2】 森琴石と福岡について
中西耕石・間部霞山・南画同志会(小倉)・村田香谷
森琴石の福岡周辺での足跡

【1】

「梅」は、中国から渡来した樹木で、詩歌に詠まれ、画題としても非常に好まれる。
森家の家紋が「梅鉢 注1」であるのも原因するのか、森琴石は、梅を大変好んで描いた。

「梅」は、中国では年明けに最初に咲く花として、「百花初見」や「百花元始」と称される。日本では旧正月の、2月の上旬頃から3月中旬が見ごろである。当ホームページでは、観梅(梅林)で有名な、大和「月ヶ瀬」を度々ご紹介している 注2
「月ヶ瀬」の梅林は、作品紹介:南画‐月ヶ瀬真景図 などの他、<画帖>や<巻物><鳥瞰図><挿画>などに表現した。森琴石が描いた、中国文人による「梅花図の模写帖」 その他が残る。

「東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ」と、京都から大宰府に左遷される日の朝、菅原道真は、自宅の、もう嗅ぐ事の出来ない香り高い梅の木を句に詠んだ。後年これが伝説 注3 となり、「梅」は、「天満宮」と「菅原道真」を結びつけるシンボルとなった。

「菅原道真」は「学問の神様」として崇められ、<管公>の肖像画は人々に好まれた。森琴石の師匠、忍頂寺静村による「管公像 注4」」が残る。

菅原道真が亡くなった1000年後の明治35年には、「管公壱千年記念行事」が日本の各地で繰りひろげられた。

森家には、森琴石の「梅花図」の賞状が2点残されている。これらは、明治35年に開催された「管公壱千年祭 記念絵画展-福岡絵画展覧会」及び、大阪府北区教育会が主催した「教育品展覧会」のものである 注5

森琴石は、同年、大阪府下守口市にある「佐太天満宮」に「楳之図」を献納していた 注6。「佐太天満宮」は、大阪府の有形文化財に指定されており、菅原道真が大宰府に左遷される途中、とどまった故地とされている。かつて門下の毛受家が所有した「尼崎新田」とは同じ、中河内に所在する。森琴石が「佐太天満宮」に献納した経緯は不明であるが、「楳之図」は、現在<大阪市立美術館 寄託品>として所蔵されている。

 
 
注1
  森家の家紋=梅鉢 ⇒家族・係累「森家:森定七」を ご覧ください
 
注2
  月ヶ瀬 記述ヶ所=「平成12年3月」・「平成17年4月」・「平成18年1月【1】」・「平成19年12月【2】3:『騎鶴楼名家遺墨聚芳』」   など
 
当HP内 森琴石の梅図=「平成19年12月【1】注3 扇面3つ目」の作品
梅の挿画=「海内詩楳第81集」(本局浪華文會・持主兼編輯人日柳政愬・明治20年3月)
☆資料ご提供者=橋爪節也氏(大阪市立近代美術館建設準備室 学芸主任)
 
注3
 
「菅原道真」と、梅にまつわる伝説
●平安時代、学者であり政治家であった「菅原道真」は、その突出した学才や異例の出生を妬まれ、京都の「北野」から、福岡の「大宰府」に左遷させられた。京都を去る前、邸宅に植えられていた「紅梅」を詩(うた)にした。
●その詩(うた)を、配所先の「大宰府」で詠むと、京都の<紅梅>が、大宰府にまで飛来したと伝えられる。配所の「榎寺」の紅梅は、後に「大宰府天満宮」建立の際ここに移され、<御神木>と、尊ばれた。
●「藤原道真」は歿後、「天皇への忠誠心と、精錬潔癖な生涯を貫いた人物であった」と、人々の尊敬を集め、<学問の神様>として崇められた。
●「大宰府天満宮」は、全国各地から梅の木が献上され(献梅)、その品種は197種類に達し、著名な「梅の名所」となった。
 
注4
 
忍頂寺静村画 「管公像」
紙本/軸寸法 縦94.0cmx横37.2cm               臨池子謹寫

忍頂寺静村画 「管公像」

 
注5
 

~管公一千年記祭紀念 賞状~

管公壱千年祭 紀念
絵画展覧會
紀念章
明治三十五年四月二十日
福岡絵画展覧会
森琴石殿

管公一千年記祭紀念 賞状

感謝状

一 梅花図 一
右管公一千年際紀念教育品展
覧会ニ際シ御揮毫寄贈被下一層
ノ光彩を添エラレ候段感謝の至リニ
不堪茲に紀念トシテ粗扇ヲ呈シ
謝意ヲ表シ候也

明治三十五年六月 日
大阪市北區教育會長梶原平太郎
森琴石殿

感謝状
 
注6
 

「佐太天満宮」への 献納「楳之図」

情報ご提供=成澤勝嗣氏(神戸市立小磯記念美術館学芸係長・平成12年に頂きました)

 
【2】

明治35年、森琴石は、管公千年祭記念行事の一環として、福岡絵画展覧会に「梅花図」を出品したが、それは、森琴石と繋がりが深い<福岡の画家>或いは<美術関係者>からの要請だったと思われる。要請者は不明である。

当ホームページで取り上げた福岡県の画家には「伊藤南華」・「栗田石癖」・「中西耕石」・「守山湘帆」・「村上我石」らがいる。中西耕石は、森琴石の控え録に名が出、清国人との筆談には「中西篤厚之人也」と紹介するなど、森琴石が尊敬し多大に影響を受けた先輩画家である。
美術関係者には「南画同志会」の「間部霞山」がいる。明治45年6月1日付の、森琴石の日誌に名前がある 注1

 <南画同志会>では、同会の中心人物だった「大雅堂定壱・永井香圃・木村耕嚴・細谷立齋」を次々と亡くし、「村田香谷・川端玉章」は老衰となり活動が出来なくなった。「間部霞山」は、当時衰退の一途をたどる「南画」を、何とか食い止めたいと、「森琴石」に相当な期待を寄せたようだ。
森琴石も当時<南画家の精神性の根絶>を憂慮していた 注2

明治45年2月、小倉にある<南画同志会編>で出版した、「画家小伝」では、「間部霞山」が、当時の美術界の現状や、南画界での苦境の実態を綴っている。下記にその一部を抜粋ご紹介する 注3。現在「南画同志会」や「間部霞山」についての情報は皆無である。

森琴石は福岡出身で、当時大阪に拠点を移し活動していた「村田香谷」とは<親友>の間柄だった。森琴石の秘蔵の小画帖や控え録などに、その名が記されている 注4
「村田香谷」は、長州藩士「木戸孝允(桂小五郎)」の側近者だった「西嶋青浦」が編した「書画名器 古今評伝」の校閲者を務めている 注5。「西嶋青浦」は、「廣瀬旭荘」の弟子であり、森琴石とは同門で「鼎金城」の門下でもあった。

「村田香谷」の父「村田東圃」の祖先は、佐賀鍋島藩内の庄屋だった。東圃は40歳近くで、博多橋口町の「村田治右衛門」の養子となった。村田家は当時製墨を主とする文具店を営んでいたが、村田家の祖先は、元長州藩士であったという 注6
博多の橋口町には、「平成18年7月 注8」で記述の、福岡で出版の先駆けとなった「山崎登」がいる。「山崎登」は、響泉堂刻「改正 福博詳細全図」の出版人である。「福博」は、江戸期から明治初期にかけて、那珂川を挟んで博多と福岡の二つの都市が並立するという、珍しい<双子都市>であった 注7

石橋雲来編「友蘭詩 第5集」23葉に、「博多向島」という森琴石の漢詩が寄せられている。向島には、江戸中期に新設された、筑後川最大の河港である<若津港>があり、多くの廻船が出入りし、河辺には、江戸や大坂に送られる藩米や、諸産物の倉庫群が林立し、近辺には、旅館、庄屋や大商家の家屋敷が建ち並んでいたという。筑後の川向こうは肥前国となり、森家祖母「梅子」の実家は、佐賀鍋島家の家臣だった。森琴石は、肥前長崎での交流者も多い 注8

森琴石は、「平成10年10月」で記述の、<福岡県鞍手郡小牧>で逗留し画を描いた。画の所有者は、大阪<靭>で大きな廻船、海産物問屋を営んでいた。

森琴石の養子先<森家>は、江戸後期、廻船関係の家業を営んでいたようだ 注9。森琴石は、「平成15年9月平成15年10月」の<山陰三保沖の鷦鷯(ささき)氏>・<福間旅館>・「平成14年7月」の<愛媛松山 三津浜>などにも逗留している。
森琴石が描いた<若狭沖>の、巻物になるような、細長い地図風スケッチが残る。森家の遠縁となった「舩田舩岳」は、鳥取県西伯郡御来屋で、大地主となるその以前は「廻船業」を営んでいたと聞く。

上記、森琴石を巡る、人と人との繋がりや足取りは、昔年からの縁もあるように思える。

 
 
中西耕石については、後月「雅友・知友」でご紹介の予定です。
 
注1
 

「間部霞山」:森琴石の日誌=略伝「村上我石 (ニ)」 をご覧ください。

 
注2
 

森琴石 ~美術界での苦悩~ 記述ヶ所=「平成19年2月【1】■6番目&注8」・関連資料:「絵画叢誌 記事(一)」 など

 
注3
 

「画家小傳」 (小倉市大阪町・南畫同志會蔵版・明治45年2月)より

 

 

 

繪畫界の現状を懺げく‐間部霞山(抜粋)

●明治四十四年の初夏より京都大阪東京の地は急轉直下の勢を以て新畫の流行を見るに至れり 昨日まで古畫一點張の老骨董店も俄かに店則を改めて新畫の販賣に從事するのみならず お門違の呉服店や新聞社が頻りに新畫の百幅會だの展覧會だの美術倶樂部だのと騒ぎ廻るに從ひ ヘボ畫工迄も大繁昌を極めて一夜天狗の大先生が其所にも此所にも殖へて來た・・・・・・・・・・以下省略。

●顧みれは過去二年の間に於て本會の中心たりし大雅堂定壱翁、永井香圃翁逝かれて間もなく木村耕嚴翁、細谷立齋翁を失ふ 村田香谷翁老衰して筆を絶つあり 川端玉章翁の老衰せるあり共に痛恨なりとす・・・・・・・・・・以下省略。
●新聞雑誌を買収し番附に運動して自ら大家なりと自惚れるヽに至りては僭越の甚だしきものにして共に歯すべきものにあらず・・・・・後略。
●XXやXXの如き・・・・盛んに骨董商や配下の者を利用し 人為的大家たらんと焦慮するあり 或は贋作に從事し不正の金銭を獲得し酒色に耽溺し・・・・・後略。

後に続く人物略伝
●森琴石先生(大阪)
「温厚寡言の琴石先生は實に稀に見るの高士なり 雑駁(ざっぱく)にして無趣味の大阪の地に於て繪畫趣味を鼓吹せるものは先生を以て租とす 爾来數十年敢て功名利達の後を趁はす権謀術數を盡くして名を售る徒輩の卑に微はず 只だ是れ眞面目に孜々として租道の研鑽に從ひ更に世上の風塵に染まざるものは先生なり 斬道の大恩人として絶對主権者の地位を有し而して他に比し得るものなき程の實力を有しながら 毫も自尊の風なく衒ふの心なし 嗚呼何ぞ高潔なる清廉なる坐るに古聖先哲を偲ばずんばあらじ 今の策を用ひ謀を設けて高く售らんとし名を衒ふ某々大家先生は須く琴石先生の態度と心情とに對し深く省みて大に恥ぢよ 乱れつ汚れつ己自らを呪へる現代の繪畫界に於て琴石先生の健在あれば吾人頗る意を強ふるに足るものあり


●寺西易堂先生(大阪)
「書風の雄偉と素養の深きと既に一世を壓倒したる易堂先生は數年來健康を損したるため筆硯を遠ざけされしかば既に物故したりとの虚報をさへ傳へられき・・・・・後略」
「画家小伝」に掲載人物名(南画同志会会員・掲載順・物故者は会員対象外)
望月金鳳翁、三島中州翁、日下部鳴鶴翁、秋月天放翁、野口小蘋先生、児玉果亭先生、巨勢小石翁、前川文嶺翁、原在泉翁、内海吉堂先生、桂田湖城先生、田中柏蔭先生、河村虹外先生、藤田秋塘先生、池田春渚先生、小林卓斎先生、中林静淑先生、綿引東海翁、田村月樵翁、松尾晩翠先生、森琴石翁、三好藍石翁、寺西易堂翁、木蘇岐山先生、吉嗣拝山先生、近藤蘊圃先生、八十島叉橋翁、雲林院蘇山翁、

以上の諸氏は人の知るが如き現代の大家たるのみならず 明治の藝壇に偉大の光彩を放てるものとす
★会員以外に南画同士會が認める書画人(物故者は対象外)
永井丹水・阿南竹陀・富岡鐵齋・望月玉泉・深田直城・中村不折・高島北海・小室翠雲※山岡米華長三洲門下・森琴石の日誌に名あり=門人:大阪市北区 鎌田梅石(四))・小堀鞆音・岸浪柳溪・平尾竹霞・三井飯山・池田桂仙・松山鴨江・森雄山・秦金石・高橋草山・八木文卿・中西松琴・尾竹越道・尾竹竹坡・服部五老・狩野雅堂・手島素岳・横井玉仙女史・手島石泉・小野素文・山元春擧・永松春洋・松岡呉藍・秋月新太郎・前田黙鳳・永阪石たい(土+隶)・藤澤南岳

※小室翠雲=南画正統派を自任する南画家で結成された<正派同志会>の副委員長を努める。森琴石は同会の評議員。大阪の老舗料亭「花外楼」所蔵の「寄合書画帖」には、小室翆雲・森琴石・石野香南・吉村鳳柳などが書画を揮毫している。当時の美術界を知る画帖の可能性がある。

 
注4、注5
 

森琴石秘蔵(小画帖) -明治11年前後のもの- 

★表装がめくれ、表面からは見えない隠れた裏面に氏名が書かれている。
(森琴石が、当時頻繁に連絡を交わしていた人名と思われる)

右:画帖表側に記された人名 宮原易庵・池田雲樵・浅井柳塘・天野方壷・山中信天翁・中西耕石
左:画帖裏側に記された人名 久保田米僊・天野方壷

森琴石秘蔵(小画帖)

画帖の大きさ 縦10,5cm x 横9.0cm


★<小画帖>は、中国文人の書画落款を写したもの。画や文字が消えたものもある。書画人は金冬心・金寿門・胡公寿・張子祥・倪旭華・楊伯潤・柳華廬逸史など。上海で写したという書画人の落款がある。その続きには森琴石が描いた「雲根(石)図」が続く。

 
村田香谷の名がある、森琴石の<控え録>及び、「書画名器 古今評伝 3冊」などの資料画像は、後月「雅友・知友:村田香谷」でご紹介します。
 
注6
 

「筑前画家村田東圃略伝」(故春山育次郎著・大熊浅次郎発行兼著作・昭和7年)による

資料ご提供者=魚里洋一氏(福岡県立美術館 学芸主任)

 
注7、注8
 

福博、肥前(佐賀・長崎)記述ヶ所=「平成19年3月【1】&【2】」など

 
注9
 

森家の家業に関する記述=「平成18年5月【4】注3◆末尾」・「平成19年7月【2】」・「平成19年12月【2】『寰瀛記(かんえいき) 小説 柳 楢悦』 ※柳 楢悦(やなぎ ならよし)氏に着目する理由」  など

 


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